
兵庫県道路公社HPより。
7月5日、兵庫県北部・但馬地方を訪れました。兵庫県は摂津・播磨・淡路・但馬・丹波の五国(備前・美作の一部を含めれば七国)から成る、全国でも珍しい成り立ちを持つ県です。その最北部に位置する但馬には、城崎温泉や湯村温泉といった名湯、冬には香住ガニを求めて多くの観光客が訪れる香住など、日本海沿岸の観光地がよく知られています。
一方で、但馬南部の朝来(あさご)市や養父(やぶ)市は、名前を聞いても具体的なイメージが湧かない方も多い地域かもしれません。両市は平成の大合併で誕生した比較的新しい自治体で、存在自体を最近知ったという人もいるでしょう。
しかしこの地域には、かつて多くの鉱山と関連施設が点在し、銀や錫などの鉱物を産出して日本の近代産業を支えてきた、非常に重要な歴史があります。その価値が認められ、平成16年には「鉱石の道」と名付けられ、平成19年には近代化産業遺産群に認定されました。産出量の減少により昭和中期に閉山したものの、今もその痕跡は静かに残り続けています。
今回、その歴史をたどるように、鉱石の道を少し旅してみることにしました。

朝来ICを降りて車を西に走らせます。ちょっとした山道を走っていると突然現れるマチュピチュ遺跡のような鉄筋コンクリートの擁壁が現れます。
これは「神子畑選鉱場(みこばたせんこうじょう)」。明治時代には神子畑でも銀鉱石が取れていましたが、採取量が減ったため閉山。大正8年に閉山したあとに選鉱場が作られました。この先の明延鉱山で掘られた鉱石を、浮力の違いを利用して錫、銅、亜鉛などに選別して、各金属ごとに各地の精錬所に送っていました。

かつて稼働していたころの神子畑選鉱場。
かつて不夜城と呼ばれた選鉱場ですが、昭和62年の明延鉱山の閉山とともに廃止され、平成16年には建物も解体。今はこの基礎構造物だけが残されています。

昭和30年ごろに作られた、選鉱場内の様子が模型が展示されていました。残念ながら細かい仕組みはわからないのですが、かなり大掛かりな設備がいくつもあって、この中で山中から掘られてきた石から貴重な金属を掘り出す作業が続けられていました。

選鉱場の一角に小さな電車が置かれていました。「一円電車」と呼ばれるこの列車は、明延鉱山と神子畑選鉱場のもっとも上の部分を結び、鉱石とともにここで働く人や家族を運んでいました。真ん中の赤と黄色の車両が客車です。

客車の中はこんな感じ。線路幅の関係もあって結構狭いです。運賃は昭和27年に50銭から1円に値上げしたあとは、昭和62年の閉山まで値上げせず1円で乗客を運んでいました。ただし鉱山関係者以外は10円。それでも昭和末期にこの値段は破格でした。

神子畑選鉱場に残るのは基礎構造物だけではありません。こちらはシックナーと呼ばれる設備で、固体の粒子が混じった液体から水分を取り除いて固体だけを取り出す濾過装置です。

操作盤も残されていて、ボタンを押せば今でも動きそうです。

鉱山での採掘や選鉱の技術は、明治時代に来日した西洋からの技師によって伝えられました。ムーセ旧居と呼ばれるこの洋館は、明治4年から明治13年までこの近くの生野鉱山で指導に当たっていた鉱山技師ムーセが生野滞在時に住んでいた宿舎を移築したものです。設計者も外国人技師であり、洋風建築の技術を日本に広める基礎を築いていきました。

神子畑選鉱場から車で少し走ったところに、川にかかる橋があります。こちらは神子畑鋳鉄橋。明治18年に、ここで取れた銀鉱石を生野銀山に運ぶためにつくられた専用道路の橋です。選鉱場となったあとはトロッコ列車も走るようになり、国鉄新井駅までを結んでいました。
すべて鋳鉄で作られた橋としては日本最古のもので、その後鋼鉄製へと発展する過渡期の橋として、日本の橋の歴史を語るうえで非常に重要な意味を持つ橋とされています。

かつてここで活躍したトロッコ列車がここで静かに眠ります。

資源の少ない日本において、掘り出された石から貴重な金属を取り出し続けてきた神子畑選鉱場。高度経済成長期の日本の発展を支えてきた陰の立役者は、その礎だけとなった今でも歴史を語り続けています。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年7月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。







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