
(前回:次のパンデミック対策は本当に安全か:政府のコロナ採点表にない「やり過ぎの害」)
空いたままの欄
前稿で見たのは、一枚の空欄だった。2026年7月16日に公表された新型インフルエンザ等対策政府行動計画のフォローアップは、病床も検査も備蓄も「達成」と報告する一方、対策そのものが生んだ害——面会制限や行動制限の代償——を書き込む欄を、はじめから持っていなかった。点検の問いは「足りていたか」だけで、「多すぎなかったか」は一度も現れない。

なぜ、こうなるのか。それを日本の役所の怠慢に帰すのは、たやすいが浅い。空欄の正体は、もっと根の深いところにある。
二種類の教訓
危機から引き出せる教訓には、二種類ある。「準備が足りなかった」と、「やりすぎた」だ。
この二つは、そもそも見え方が違う。準備不足がもたらす害——動かなかったことによる害——は、目に見える。感染者数として、死者数として数えられ、担当者に帰せられ、名指しで糾弾される。一方、やりすぎがもたらす害は、目に見えにくい。自由の制約も、孤立も、失われた学びも、社会全体に薄く広がり、遅れて現れ、誰か一人の責任には結びつかない。数えられる害と、数えられない害。この非対称が、すべての起点にある。
だから記録は、いつも数えられる側に埋まる。「準備が足りなかった」という教訓は、可視で、帰責先が明快で、しかも——予算と権限の拡張を正当化してくれる。過失なき失敗は、失敗した当人に増設をもたらすのだ。組織にとって、これほど拾いやすい教訓はない。そして「やりすぎた」という教訓は、数えにくく、帰責先も曖昧なまま、記録の外へこぼれ落ちていく。
謝ったら死ぬ国
この非対称は、日本に固有の話ではない。どの国の官僚機構も、大なり小なり同じ傾きを抱えている。予防のための措置は、それ自体を止める仕組みを持たないからだ。
問題は、傾きの有無ではなく、それを是正できるかどうかだ。そして是正には、決定的な関門がある。「やりすぎた」と記録することは、それを課した判断の誤りを認めること——つまり謝罪を意味する。誤りを認めた者が沈み、認めない者が生き残る、謝ったら死ぬとでも言うべき構造の下で、この関門は越えられない。空いた欄は、記入し忘れられたのではない。埋めれば謝罪が発生する欄だから、はじめから設けられなかったのである。
だとすれば、答えは一つしかない。当事者自身に謝罪を求めない検証——外から来る、独立した目である。独立した調査は、誰かに代わって謝るわけではない。だからこそ、謝罪の関門を迂回して「やりすぎた」と書ける。ここに、各国の分かれ道がある。
過剰を測れる国、測れない国
いくつかの国は、その独立した目をつくった。
英国は、独立した公的調査(COVID-19 Inquiry)を立ち上げ、検証の枠組みそのものを「五つの害」で構成した。ウイルスによる直接の害、間接的な健康被害、社会的な害、経済的な害、そして対応が既存の不平等を悪化させ、あるいは新たに生んだ害である。対応が生んだ害が、検証設計の中に最初から組み込まれている。調査はロックダウンや在宅勤務命令、マスク方針といった意思決定を、そのまま俎上に載せる。
スウェーデンは、政府が設けた検証委員会が、過剰と過少の双方を裁いた。強制的な措置よりも自発的な措置の方が適切で、個人の自由をより守った側面があると指摘する一方、第一波ではもっと早く、広範に動くべきだったとも述べた。過剰も過少も、どちらも誤りとして記録できる——それが、両方向を測れる検証の姿である。
ここで注意したいのは、どの国が「正しかったか」を論じているのではない、ということだ。英国の結論には激しい異論があり、それ自体が論争の的である。問題は結論ではなく、装置のかたちだ。過剰反応を検知できる目盛りを備えた検証と、備えていない検証がある。前者は「やりすぎた」と言える。後者は、口が「足りたか」としか動かないよう作られている。
日本が振り返ったときも、同じだった
では、日本には振り返りが無かったのか。あった。だが、それも同じ形をしていた。
2022年6月、政府は新型コロナウイルス感染症対応に関する有識者会議の報告書をまとめている。そこに並ぶ「課題」を読むと——個人防護具の品目や数量が計画に明記されていなかった、感染拡大で保健所に業務が集中し積極的疫学調査ができなかった、検査キットの需給を早期に察知するモニタリングが無かった。いずれも、応答が足りなかったという反省である。
この検証が導いたのは司令塔機能の強化であり、そのために内閣感染症危機管理統括庁が設けられた。
つまり、日本が一度だけ立ち止まって過去を振り返ったときも、見ていたのは容量の不足だけだった。「対応が拙かった、次はもっと厚く速く」とは問うても、「あの措置は行き過ぎではなかったか」とは問わない。振り返りを自分の手で行い、謝罪の関門の手前で引き返す。前編で見たラチェットは、法律の中だけにあるのではない。振り返りの作法そのものに埋め込まれている。
想定される反論はこうだろう。過少反応こそ人を殺したのだ、準備の増強こそ誠実な教訓ではないか、と。もっともだ。だが、成熟した検証は両方の誤りを裁く。片目をつぶった点検は、点検ではない。
空欄が保証するもの
空いた欄は、次を約束する。過剰を測る目盛りが検証に無い限り、次のパンデミックで私たちは、より大きな検査網と、より多くの病床と、より洗練された行動制限を手にするだろう。そして、その膨らんだ装置を「いつ止めるか」を書いた頁は、やはり綴じられていない。次の過剰は、いわば事前に承認されている。
必要なのは、難しい思想ではない。難しいのは、自らに判定を招き入れることだ。措置ごとに事後の比例性を点検すること。緩和や撤退の基準を、発動と同じ重さで設計すること。容量の台帳と並べて、措置が生んだコストの台帳をつけること。そして何より、自らを採点しない、独立した目を検証に入れること。過剰を記録できる欄を一つ、あの採点表に足すこと——謝罪を制度の敵ではなく、学習の入口として扱えるようになるまで、この国は無過失の教訓だけを、律儀に学び続ける。
※ 本稿の分析は、内閣官房「新型コロナウイルス感染症対応に関する有識者会議」の報告書(2022年6月)、および第23回新型インフルエンザ等対策推進会議資料(2026年7月16日、前編に詳しい)に基づく。英国 COVID-19 Inquiry、スウェーデンの検証委員会(Coronakommissionen)の記述は、それぞれの公表資料による。







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