
こんにちは、自由主義研究所の藤丸です。
今回は、最近話題となっている「AIの覇権」というテーマの、その考えの根本問題についてです。
いま、世界では「次の覇権」をめぐる静かな戦争が起きています。武器はミサイルではなく、AIです。そして、その覇権を握ろうとしている国のひとつが、中国です。
中国は国家戦略として「2030年までにAIで世界のトップに立つ」と公然と掲げ、政府主導で企業・研究機関を動員し、AIと国防との統合も進めながら、この目標に突き進んでいる、と報じられています。
恐ろしいのは、単に技術で先を越されるかもしれない、という話だけではありません。AIは、権威主義国家にとって最強の統治の道具になりうるからです。
顔認証、企業や個人を対象とする各種のブラックリストを含む社会信用制度、街中に張りめぐらされた監視のネットワーク。そうやって国民一人ひとりのデータを国家が握り、社会を上から「最適に」制御しようとする。しかもその監視技術を、中国は他の権威主義国へ輸出しているとも言われます。
本当に怖いのは軍事的な敗北よりも、「監視と検閲がデフォルトの世界」が、AIの標準として世界に広がっていくことのほうです。
この構図の根っこには、一つの発想があります。「国家がAIとビッグデータを握れば、市場に任せるよりも賢く正確に、社会を計画し、最適化できる」という発想です。
テクノロジーと大量のデータによって、市場に代わる経済調整が可能になるのではないかという議論は、一部のテクノロジー論者や社会主義者の間で再び提起されています。
かつて計画経済が失敗したのは、計算が追いつかなかったからにすぎない。膨大な財の需給を人間の官僚が手作業でさばくのは無理があった。しかし今なら、あらゆる取引データがリアルタイムで集まり、それを処理する計算能力もある。ならば国家は、市場よりうまく資源を配分できるのではないか——というわけです。
しかし、国家がAIで「社会を最適に計画できる」という発想は、正しいのでしょうか。
答えははっきり「否」です。
そしてその理由は、80年前にフリードリヒ・ハイエクがすでに書き尽くしています。AIによる「計算能力の飛躍」が、なぜハイエクの反論を無効化しないのか。順を追って説明していきます。
1. これは、100年前の論争の焼き直しである
「AIで計画経済を」という発想は、まったく新しく見えて、実はほぼ1世紀前に始まり、オーストリア学派が原理的な反論を提示した論争の再演です。この応酬は「社会主義計算論争」と呼ばれ、20世紀の経済学における重要な論争のひとつとして、多くの論者から広く言及されてきました。
口火を切ったのは1920年、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスでした。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス
ミーゼスの主張を大まかにまとめると、次のようになります。
工場や機械、原材料といった生産手段が国有化され、その市場価格が消えてしまえば、計画当局は、限られた資源をどの用途に振り向けるべきかを合理的に計算する手段を失う、というものです。

これに社会主義の側から反論したのが、1930年代、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲらの「市場社会主義」でした。
大雑把に言うと、ランゲの主張は、「中央の計画当局が、市場を経ずに擬似的な価格を設定し、品不足なら上げ、品余りなら下げる、という試行錯誤を重ねていけば、市場と同じ均衡へたどり着けるはずだ」というものです。
要するに「計算と調整さえすれば、市場は要らない」という主張です。
日本では、経済学者の山本勝市が著書『計画経済の根本問題』(1939年)で、この市場社会主義をいち早く批判していました。
いま再燃している「AIで計画経済を」という議論は、構図としてはこのランゲ側の焼き直しにすぎません。「計算と調整さえすれば市場は要らない」という骨格はそのままに、現代の論者は「今なら計算能力がある」と付け加えただけなのです。
そして、この議論に対して、オーストリア学派の立場から決定的な反論を提示したのがハイエクでした。
2. AI計画経済論の3つの主張
現代版の計画経済論には、大きく分けて三つの主張があります。ここではそれぞれを順に答えていきます。
主張①「計算力が足りなかっただけ」
反論:知識の問題は、計算能力の問題ではない
まずは、いちばん素朴な「計算力不足説」です。
計算機科学者ポール・コックショットと経済学者アリン・コットレルは、著書『Towards a New Socialism(新しい社会主義に向けて)』(1993年)で、労働時間を基準とする経済計算と現代のコンピュータ技術を組み合わせれば、大規模な経済計画も技術的に実行可能になりうると論じました。
アリババのジャック・マー(馬雲)も、あらゆるデータにアクセスできれば市場の”見えざる手”すら可視化でき、計画経済はかつてより機能しうる、と語ったと報じられています。
要するに、ミーゼスやハイエクが正しかったのは計算機が貧弱だった時代の話だ、というわけです。
しかしこの説は、ハイエクの反論を取り違えています。ハイエクが指摘したのは「計算が大変だ」という量の問題ではありません。経済活動に必要な知識は、最初から一か所に集約されたデータとして存在しているのではなく、無数の個人の間に分散し、それぞれが不完全な形で持っているという、より根本的な問題です。
ハイエクは1945年の論文「社会における知識の利用(The Use of Knowledge in Society)」で、社会が利用しなければならない知識は、決して「集約された形」で誰か一人の手元に存在するのではなく、個々人が断片的に持つ、不完全で、ときには互いに矛盾する知識として存在すると指摘しました。

このハイエクの指摘を、現代的な観点も含めて整理すると、中央による知識の集約には少なくとも三つの問題があります。
第一に、多くの知識は、容易には言葉や数値に置き換えられません。熟練工が機械の異音から不調を察したり、店主が「この地域では夕方になるとこの商品が売れる」と経験的に知っていたりするような知識です。こうした知識は、本人でさえ完全には言語化できず、データとして入力される前に取りこぼされる可能性があります。
第二に、多くの知識は、特定の場所と時点に固有のものです。ある地域で何が不足しているか、どの設備に余裕があるか、どの輸送経路が現在使えるかといった情報は、中央が収集し、整理している間にも変化していきます。
第三に、人々の選好は固定されたものではありません。何を欲しいと思うか、いくらなら買うか、代わりに何を選ぶかは、価格の変化や他者の行動、新しい商品との出会いなどを通じて変わります。需要は、あらかじめ完全なデータとして存在しているのではなく、市場での選択と競争の過程を通じて、はじめて明らかになる部分があるのです。
したがって、計算能力がどれだけ向上しても、中央が必要な知識を完全かつ最新の形で取得することはできません。AIは、入力されたデータを驚異的な速さで処理できます。しかし、データとして表現されなかった知識、収集時点ですでに古くなった情報、市場での試行錯誤を通じてまだ発見されていない選好については、AIもそのままでは知ることができません。
この意味で、AIの進歩は計算速度の問題を大幅に軽減しても、ハイエクが指摘した知識の問題そのものを解消するわけではないのです。

主張②「デジタル基盤が市場に代わる」
反論:価格は「答え」ではなく、競争という「発見の過程」を通じて形成される
次が、いちばん手強い主張です。思想家エフゲニー・モロゾフは論文「Digital Socialism?(デジタル社会主義?)」(2019年)で、ハイエクの知識論をむしろ正面から認めます。そのうえで、無数のセンサーやプラットフォームが生み出すデジタルなフィードバックの基盤こそが、市場に代わる新しい「発見の手続き」になりうるのではないか、と問いかけました。
単なる計算能力の話ではなく、情報基盤そのものが市場に取って代わる、という一歩踏み込んだ主張です。
ここで決定的に重要なのは、市場価格が既知のデータから計算された単なる「答え」ではなく、競争という発見の過程を通じて形成され、分散した情報を伝えるものだという点です。
ハイエクは1968年の講演「発見手続きとしての競争(Competition as a Discovery Procedure)」で、競争とは、それがなければ誰にも知られないままだった事実を発見する手続きだ、と述べました。どの生産方法が最も安いか、消費者が本当は何を求めているか——これらは競争が実際に行われてはじめて分かることで、始める前から誰かの手元にあるデータではありません。

しかし、デジタル計画経済を支持する側は、こう反論するかもしれません。プラットフォームはA/Bテストや動的価格づけで、リアルタイムに未知を能動的に探索しているではないか、と。
たしかにそうです。しかしその実験は、市場という土台に寄生してはじめて成り立ちます。どの選択肢を試し、どの結果を「成功」と見なすかを決めているのは、社外の市場が付けた価格を読む企業家の判断だからです。「市場価格」と「誤れば損を負う所有権」を取り払えば、実験の結果を評価する物差しそのものが消えてしまうのです。
しかも、「人は正確に申告するのか」という問題もあります。計画当局への申告では、必要量を多めに申告したり、達成可能な目標を低く示したりするなど、自分に有利な情報を出す誘因が生じます。AIが処理する以前に、入力されるデータそのものが戦略的に歪められる可能性があるのです。いくらAIが速く賢くなっても、この問題は解決できません。
主張③「ウォルマートが証拠だ」
反論:それは「市場の海に浮かぶ計画の島」にすぎない
最後は、いちばん実感しやすい主張、『The People’s Republic of Walmart(人民のウォルマート)』(2019年)です。
ウォルマートやアマゾンの内部では、何万という品目の調達・在庫・配送という多くの社内取引が、外部市場での個別売買ではなく、経営上の指示と計画によって調整されています。事実上の計画経済がすでに高効率で動いているのだから、一社で可能なら社会全体でも可能なはずだ、というわけです。
たしかに両社は社内を計画で回しています。しかしそれは、「市場という海に浮かぶ”計画の島”」にすぎません。彼らが社内で合理的に計算できるのは、島の外に市場価格が存在し、投入物の機会費用、つまりある資源をこの用途に使えば、代わりに何をあきらめるのかについて、絶えず教えてくれるからです。
トラックを一台増やすべきか、倉庫をもう一棟建てるべきか。その判断は、社外の市場が付けた鉄鋼・燃料・土地・労働の価格を参照してはじめて成り立ちます。世界中の市場を消してしまえば、ウォルマートやアマゾン自身も「何がどれだけ希少か」を知る手がかりを失い、たちまち盲目になります。
つまり「企業の内部で計画が回ること」は、「市場を廃した経済全体の計画が可能なこと」を少しも意味しません。この二つを同じ「計画」という言葉で括る混同こそが、議論のトリックでした。
この区別は、オーストリア学派の側から『人民のウォルマート』への直接の反論として、すでに明確に示されています。
しかも、その島にはもうひとつ規律があります。ウォルマートもアマゾンも損益と競争に絶えずさらされ、間違え続ければ市場から退場させられます。
ところが、社会全体の計画を担う当局には、企業のような倒産や退出の規律がないのです。
3. 中国のAI国家戦略も、「勝者選び」の産業政策も、同じ壁にぶつかる
ここで、冒頭の中国の話につながります。
中国は2017年、国務院が「次世代人工知能発展計画」を公表し、2030年までにAIの理論・技術・応用で世界をリードし、「世界の第一のAIイノベーション中心(the world’s primary AI innovation center)」になるという国家目標を掲げました。
国家が大量のデータとAIを掌握し、経済社会を上から誘導しようとするこの構想には、現代版の「デジタル計画主義」に通じる側面があります。
しかし、いくら高度なAIを国家が握っても、前段で示した反論は動きません。暗黙知は完全にはデータ化できず、局所知は収集する間にも古くなり、選好は市場での過程を通じてはじめて明らかになる部分があります。また、計画当局への申告には、自分に有利な情報を伝えようとする誘因も生じます。
したがって、コンピュータの性能向上だけでは、ミーゼスとハイエクが指摘した問題を解消できないのです。
同じことは、いま世界中で推進されている「産業政策」にも当てはまります。
とりわけ、政府が有望な企業や技術を選び、補助金で「勝者」を育てようとするタイプの産業政策には、「政府は将来の成功分野を市場より先に見抜ける」という前提があります。
しかし、どの技術が本当に消費者の需要に応えるかは、競争が実際に行われてみるまで誰にも分かりません。それこそハイエクの言う「発見の手続き」を経てはじめて分かることなのです。

日本も他人事ではありません。次世代半導体の国産化を目指すラピダスへの研究開発支援の決定額は、累計2兆3540億円に達しています(2026年4月時点)。その結果がどうなるかはまだわかりませんが、少なくとも、政府が市場に先立って特定の企業と技術に巨額の資源を集中させる政策であること、そしてその判断がハイエクの指摘した知識の問題に直面することは確かです。

ソ連型計画経済が西側との経済競争で行き詰まった原因を、単なるコンピュータ性能の不足に還元することはできません。
ソ連にも、線形計画法の先駆的研究を行い、ノーベル経済学賞を受けたカントロヴィチのような優秀な数学者がいましたし、経済全体を計算機ネットワークで管理しようとするOGAS構想さえありました。
ミーゼスとハイエクの観点から見れば、欠けていたのは単なる計算能力ではなく、市場価格が伝える分散した知識でした。その問題は、AIの時代になっても消えていません。
4. AIは「集権」の道具にも「分散」の道具にもなりうる
これまで、「AIがあっても計画経済の根本問題は解消されない」という話をしてきました。
しかし、AIそのものが必ず分散をもたらすわけではありません。国家や巨大企業が大量のデータを集め、国民を監視し、行動を予測・誘導するための、強力な集権の道具にもなりえます。
一方でAIは、これまで専門家や大組織でなければできなかった仕事を、個人にも可能にします。翻訳、設計、分析、創作、プログラミング——AIは、分散した個人が持つ知識と能力を大きく高める道具でもあります。
つまり、AIには、国家や巨大組織に情報と権力を集中させる方向と、個人の能力を高め、分散した知識をより有効に活かす方向があります。
自由な社会で重要なのは、国家が最も強力なAIを独占することではなく、多くの個人や企業がAIを自由に利用し、競争し、試行錯誤できる環境を守ることです。
国家がAIを国民の管理に使うのか、個人がAIを自らの自由と能力を広げるために使うのか。中国型のモデルと自由社会のモデルを分けるのは、技術そのものではなく、AIをめぐる制度と権力のあり方なのです。
5. 見えない知識を、誰の手に委ねるのか
デジタル計画経済論には、たしかに一理ある部分もあります。巨大企業の内部が大規模な計画で動いていることも、計算能力が飛躍的に向上したことも事実です。AIによって、需要予測や在庫管理、物流などの精度はさらに高まるでしょう。
しかし、それでもミーゼスとハイエクが指摘した問題は消えません。
経済に必要な知識は、あらかじめ中央に集められた完全なデータとして存在しているわけではありません。言葉や数値に置き換えにくい暗黙知、その場とその時に固有の局所知、競争や取引を通じてはじめて明らかになる需要や選好があります。
AIは、入力されたデータを高速で分析できます。しかし、入力されなかった知識、すでに古くなった情報、まだ発見されていない選好まで、自動的に正しく把握できるわけではありません。
また、市場価格は、単なる計算結果ではありません。人々が自らの財産を使い、利益を求め、損失を負いながら行動する過程で形成されます。どの資源がどれだけ希少で、何が本当に求められているかは、この競争と試行錯誤を通じてはじめて明らかになるのです。
したがって、AIは計画に必要な計算を助けることはできても、市場価格の形成、分散した知識の発見、情報を正直に伝えるインセンティブ、損益による規律まで代替することはできません。
オーストリア学派の立場から見れば、AIの進歩によっても、全面的な計画経済における合理的な経済計算の問題は解消されません。
見えない知識を、中央の計画に委ねるのか。それとも、自由な個人の判断と試行錯誤に委ねるのか。
AIは、この80年前からの問いに新しい答えを出したわけではありません。ただ、その問いをいっそう切実にしたのです。
私たちは、その問いに自由の側から答え続けるために、これからも活動を続けていきます。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2026年7月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。







コメント
一番怖いのは、AIの出した答えに手懐けられたり、従っておけば大丈夫的な人間側の諦めかもしれませんね。