
まず、日本の歴史時代の区分を概観するならば、最も古い時代は旧石器時代である。そこから、土器が使われ始めた縄文時代、稲作が始まった弥生時代、そして巨大な古墳が築かれた古墳時代へと続いていく。
古墳時代の途中からは、飛鳥時代としてとらえられる。両者は部分的に重なっている。古墳時代と飛鳥時代を合わせて「大和時代」と呼ぶこともある。大和朝廷が出現し、都が平城京に移るまでの期間が大和時代にあたる。
では、飛鳥時代はいったいいつから始まったのであろうか。実は、いくつかの説があり、どれが正解とは断定できない。有力な説の一つは、女帝であった推古天皇が豊浦宮で即位した推古天皇元(593)年から、都が平城京に移った和銅3(710)年までの118年間とするものである。
飛鳥時代という時代区分については、少々複雑な面がある。
美術や建築の歴史の世界では、大化2(646)年の大化の改新という大きな政治改革があった後を「白鳳時代」と呼んで、飛鳥時代と区別することがあるからだ。政治史では、このような区別はしないのだが、文化史では、飛鳥時代の後に白鳳時代があったと考えられている。
飛鳥時代は、日本の歴史を語る上で非常に重要な時代である。特に信仰という面では、仏教が日本に伝来したことが極めて大きな、そして決定的な出来事であった。それまでの日本には、土着の神道の信仰があった。もっとも、神道という言葉自体は後から生まれたものである。そこに、朝鮮半島から仏教が伝来したのである。
朝鮮半島の仏教は、中国の仏教の影響を強く受けており、それが日本に公式に伝わったのは、欽明天皇13(552)年だと『日本書紀』には記されている。この出来事を「仏教公伝」という。
しかし、他の資料を見ると、宣化天皇3(538)年という説もあり、実ははっきりしない。現在では、どちらの年も正確ではないと考えられており、そもそも、そのような明確な出来事があったのかどうかについても議論がある。ただ、6世紀の中頃には、仏教が日本社会の中心となる部分に伝わったことは事実なのではないだろうか。
その点について、一つ重要なことがある。
古代の人々にとって、さらにその後の時代の人々にとっても、552年の仏教公伝は前提となっていた。なぜなら、この出来事があったからこそ、天平勝宝4(752)年には、奈良にある東大寺で大仏開眼会が営まれたからである。大仏が完成したわけではなかったにもかかわらずである。さらに、日本が「末法の世」に入ったのは永承7(1052)年からとされた。どちらも552年が起点になっていた。
飛鳥時代は、仏教が日本に伝来したこと以外にも、多くの出来事が目まぐるしく起こった激動の時代でもあった。あたかも、その後の日本の国のかたちを決めるための重要な設計図が、次々と描き出されていったような、そんなエネルギーに満ちた時代だったのだ。
例えば、「冠位十二階」という、役人の位を決める新しい制度が作られた。これは、それまでの身分制度にとらわれず、能力のある人間が出世できる機会を広げようとする試みであった。
そして、「十七条の憲法」も作られた。これは、現代の私たちがイメージする、国民全体の権利や義務を定めた憲法とは異なり、役人が職務を遂行する上で守るべき心得のようなものであった。
この時代、日本は積極的に海外との交流も開始する。中国の隋に「遣隋使」を派遣し、進んだ文化や制度を学ぼうとした。その後の「遣唐使」の派遣を通して、当時の日本は、中国の文明が自国よりもはるかに進んでいることを痛感し、中国の方式を積極的に導入することで自分たちの社会も発展させようという方針で臨んでいくことになる。
政治の世界でも大きな動きがあった。「大化の改新」が起こり、当時、強大な力を持っていた蘇我氏が滅亡し、天皇を中心とした新しい政治体制へと大きく舵が切られたのだ。
「白村江の戦い」という、日本にとって苦い敗北を経験する出来事もあった。国内では、人々の情報を把握するための「戸籍制度」が整備され、後継者争いである「壬申の乱」が起こり、これには天武天皇が勝利した。
天武天皇の時代には、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という律令が制定された。日本独自の法律である律令を制定する動きは、この頃から本格化する。ただし、その手本となったのは唐の律令であった。唐の律令をほぼそのまま導入しつつ、日本の実情に合わせて少しずつ変更していくという方法が採られた。この方法は、後の「大宝律令」や、それをさらに修正した「養老律令」にも受け継がれた。
都という面でも、飛鳥時代には大きな特徴がある。繰り返し遷都が行われたのだ。
推古天皇の時代には豊浦宮と小墾田宮が置かれ、その後、舒明天皇の岡本宮へと遷り、さらに天武天皇の飛鳥浄御原宮、そして天武天皇の皇后であった持統天皇と、その孫である文武天皇の時代の藤原京へと、都は次々と遷っていった。短い期間ではあったものの、飛鳥以外の難波(大阪)と大津(滋賀)にも都が設けられた。
地図で見てみると、板蓋宮、岡本宮、浄御原宮、川原宮は、比較的近い場所に位置していることが分かる。藤原京は、これらの都からは少し離れていたが、そのすぐ北にあった。特に藤原京は、広くて立派な、本格的な都であった。
では、なぜこれほどまでに都は遷り変わっていったのであろうか。
理由の一つとして考えられるのは、建物の耐久性の問題である。建物の耐久性は時代によって異なるが、飛鳥時代や奈良時代の建物は、一般的に20年くらいが寿命であったとされている。
このことは、20年に一度行われる伊勢神宮の「式年遷宮(しきねんせんぐう)」からもうかがい知ることができる。式年遷宮においては、伊勢神宮にある最も重要な内宮と外宮の社殿だけでなく、125もあるすべての社殿を、20年に一度、順番に建て替えていく。ちなみに、次回の遷宮に向けた作業は、すでに2025年5月から始まっており、内宮と外宮、そして内宮の別宮である荒祭宮の遷御の儀は、2033年に行われる予定である。
式年遷宮の場合、20年という期間は、時代によって19年になったり21年になったりすることもあったが、その間に建物はかなり傷んでしまう。現在、前回の遷宮からすでに12年が経過しており、茅葺きの屋根などは剥げ落ち、かなり傷んでいる。檜の素木造りであるため、20年が経つと建物はかなり劣化してしまうのである。
伊勢神宮と同じような素木造りの建物が飛鳥時代の都に建てられたのだとすれば、寿命は20年程度が限度であったであろう。20年が限度ということは、10年ほど経った段階で、建て替えの検討を始めなければならない。その際に、同じ場所で建て替えるのではなく、別の場所に移って、新たに都を造るということが行われたのだ。
しかし、都の移動の理由は、そうした建物の老朽化だけではなかった。都ができると、そこには多くの人が集まり、人口集中という事態が生まれる。そうなると、どうしても避けられない問題として、ゴミや糞尿がたまってくるのだ。
ゴミや糞尿が堆積すると、当然、生活環境は悪化する。それは、疫病が流行する原因にもなる。古代から、疫病の流行は何度も繰り返されており、それに対処するために、人々はさまざまな対策を講じてきた。古代から中世にかけては、神仏に祈ることが疫病対策の中心であったが、現実的な策としては、ゴミや糞尿がたまり、疫病が流行しそうになった段階で、都を移転するという方法が採られたのである。
天皇の代替わりも、遷都の重要な節目となった。天皇の在位期間は時代によって変わっていったが、飛鳥時代だと、最も長かったのは持統天皇の36年で、最も短かったのは弘文天皇の2年である。平均すると10.9年と、10年をわずかに超える程度であった。天皇の代替わりというタイミングも、都を移す一つの目安になった。そのため、飛鳥時代には、都の移動が頻繁に繰り返されたのである。
さて、仏教公伝について、もう少し詳しく見ていこう。
『日本書紀』によれば、朝鮮半島の百済の聖明王(せいめいおう)が、日本の欽明天皇に、一体の仏像と経典を献上したと記録されている。この時、聖明王は、仏教を広めることがいかに素晴らしい功徳を生むかについて熱心に語る上表文も一緒に送ってきた。
その際、欽明天皇が特に心を奪われたのが仏像であった。当時の日本には、縄文時代の素朴な土偶や、弥生時代から古墳時代にかけてのユーモラスな埴輪といった宗教美術はあったが、金銅製の仏像など、まったく目にしたことはなかったはずだ。仏像は、あたかも異世界からやってきたような、そんな衝撃を天皇に与えたのではないだろうか。
この時、百済から伝えられた仏像が具体的にどのようなものであったのか、実物は残念ながら現存していない。しかし、手掛かりはある。
東京国立博物館には、法隆寺から献上された宝物を集めた「法隆寺宝物館」があり、そこには、おおむね20~30センチメートル程度の小さな金銅仏が数多く展示されている。これらの仏像は、飛鳥時代に朝鮮半島や日本で作られたものである。おそらく、最初に欽明天皇に献上されたのも、このような小さくて精巧な金銅仏であったはずである。
『日本書紀』には、天皇が、この新しい信仰である仏教を日本に広めるべきかどうかを、当時、大きな力を持っていた蘇我氏(そがし)や物部氏(もののべし)といった豪族たちに諮ったと記されている。すると、豪族たちの間で激しい意見の対立が起こった。ただし、実際にそのようなドラマチックな出来事があったのかどうか、専門家の間でも議論がある。
仏教公伝を受けて、最初に自分たちの寺院を建立したのが、仏教を受け入れるべきだと考えていた蘇我氏である。一方、物部氏は、仏教で祀られている仏を「蕃神(ばんしん、外国の神)」だととらえ、「そのような蕃神を祀るようになれば、国神(くにつかみ、日本の神)が怒り、きっと災いが起こる」と強く反対した。実際に疫病が流行し、そのために仏像を捨てさせたという記録も残っている。ところが逆に、仏像を捨てたことで疫病が流行したという伝承もあり、事実ははっきりしない。
そのような状況の中、蘇我氏が建立した寺院が「飛鳥寺(あすかでら)」である。これは、現在の奈良県明日香村にある寺院で、当初は「法興寺(ほうこうじ)」、あるいは「元興寺(がんごうじ)」と呼ばれていた。最初に建立された寺院の名称としては、まさにふさわしい名前である。飛鳥寺は、6世紀の終わり頃から7世紀の初め頃にかけて創建された。
創建された当時の飛鳥寺は、本格的な伽藍を備えており、広大な境内を有していた。現在では、当時の面影はなく、規模はかなり縮小されているが、今も本尊として祀られている仏像が「飛鳥大仏」である。ただし、大仏とはいっても、高さは約3メートルと低い。飛鳥大仏は、飛鳥寺が創建されて間もない7世紀の初め頃に造立されたという説が有力である。そうであるなら、日本で造られた最初期の仏像になり、非常に貴重である。
ところが、不思議なことに、飛鳥大仏は国宝に指定されていない。重要文化財ではあるが、国宝に指定されていないのは、歴史的な価値は認められているものの、創建当初の姿を完全にはとどめていないからである。造立後、何度も損傷し、ほとんどは後世に修復されたものである。実際に飛鳥大仏を間近で見ると、アルカイック・スマイルと呼ばれる独特の微笑みをたたえている法隆寺の釈迦三尊像によく似ているのだが、どこか神々しさに欠けるという印象を受ける。
ただし、最近の科学的な研究によると、現在の飛鳥大仏には、創建当時の材料がかなりの程度残っていることが明らかになった。調査にあたった大阪大学大学院の藤岡穣教授は、「鎌倉時代に、元の素材を再利用して造り直したのではないか」という注目される見解を述べている(産経新聞、2018年10月27日付)。
創建当初の飛鳥寺では、中心に高くそびえる五重塔があり、その左右には、それぞれ東金堂と西金堂という二つの重要な建物が建ち、さらにその背後には、最も重要な建物である中金堂が建っていた。現在、このような形式の寺院は残っていない。
これは、「一塔三金堂式伽藍(いっとうさんこんどうしきがらん)」と呼ばれる特殊な伽藍配置である。この配置は、朝鮮半島に見られるもので、高句麗(こうくり)の上五里寺址(かみごりじし)や定陵寺(ていりょうじ)、新羅(しらぎ)の皇龍寺址(こうりゅうじし)などに見られる。百済にも、同様の伽藍配置があったといわれている。
飛鳥寺が完成した後には、高句麗の慧慈(えじ)、百済の恵聡(えそう)といった、朝鮮半島から多くの優秀な僧侶が日本に渡来し、この飛鳥寺に入った。これらの僧侶たちは、日本で仏教の教えを広めることを使命としていたのである。
僧侶は、世俗を離れて寺院で生活しているので、日々の生活の心配をすることなく、仏教を広める活動に専念することができた。これは、キリスト教のカトリックにおける宣教師の活動と似ている。
飛鳥寺の伽藍配置や、そこに集まってきた僧侶たちの姿からは、初期の日本の仏教が、朝鮮半島の強い影響を受けていたことがよく分かる。当時の日本にとって、朝鮮半島は仏教の先進国であり、さらにその背後には、朝鮮半島に仏教を伝えた中国という大国が存在していた。日本の仏教界は、これ以降、相当に長い間にわたって、中国から多くの影響を受けることになっていくのである。
飛鳥寺が最初に建立された飛鳥の地には、続々と新しい都が造営され、その周囲には、競うように多くの寺院が建立されていった。小墾田寺(おはりだでら)、山田寺(やまだでら)、川原寺(かわらでら)、高田寺(たかだでら)などが、その代表である。ところが、時の流れとともに、これらの寺院は廃れ、廃寺となってしまい、現在では、その跡を示す石などがわずかに残るばかりである。
そんな寺院の中で、特に注目したいのが山田寺である。山田寺の場合、最終的に完全に廃寺となってしまうのは、明治時代の「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」によってであった。寺院の建物の土台や柱を支えていた礎石などは残っているものの、明治時代には、その礎石が庭園の飾り石として持ち出されてしまったりもした。哀れな末路である。
山田寺の伽藍配置は、中門、五重塔、金堂、講堂が南から北へ一直線に並ぶという珍しいもので、現在では、その特徴的な配置から「山田寺式伽藍」という名称が付けられている。
山田寺という名称を聞いたことがあるという方もいるだろう。それは、「仏頭」を通してのはずだ。
山田寺には、かつて大きな仏像が安置されていたのだが、現在残っているのは、その頭部だけである。頭部だけでも1メートル近くあり、当時の仏像がいかに巨大であったかを物語っている。このことからも、山田寺が、当時の日本において、いかに重要な寺院であったかがうかがえる。
現在、この山田寺の仏頭は興福寺(こうふくじ)に保管されており、そこで目にする人も多いのだが、興福寺にもたらされるまでには、次のような物語が隠されている。
平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて、九条兼実(くじょうかねざね)という、摂政・関白の位にあった人物がいた。彼は、藤原氏の中でも特に格式の高い九条家の出身である。その兼実が、当時の出来事を克明に記録した日記『玉葉(ぎょくよう)』は、歴史を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
その『玉葉』の中に、文治3(1187)年の出来事として、大和国を支配し、強大な力を持っていた興福寺の僧兵たちが、山田寺に押し入り、本尊として祀られていた「薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)」を強奪し、興福寺の東金堂の本尊としてしまったという記述が出てくる。
現在、山田寺の仏頭と呼ばれているものは、この強奪された薬師三尊像の中央にあった薬師如来(やくしにょらい)像の頭部であると考えられる。頭部しか残っていないため、全体の姿は分からず、どのような如来像であったかは定かではないが、『玉葉』の記述から考えると、薬師如来であったと見てまず間違いないであろう。
というのも、古代においては、薬師如来像が本尊となっている寺院が非常に多かったからである。薬師寺や新薬師寺などがそうだが、他の多くの寺院でも見られた。薬師如来は、薬の入った壺である薬壺を持っているのが特徴であり、人々を苦しみから救ってくれると信じられていたために盛んに祀られたのだ。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺といった、平安時代に生まれた日本を代表する寺院の本尊も薬師如来である。
興福寺に強奪された薬師如来像は、その後、応永18(1411)年に起こった東金堂の火災によって焼け落ちてしまい、頭部だけが残った。その頭部は、その後再建された本尊の台座の中に収納され、長い年月が経つうちに忘れ去られてしまったのだ。
そのため、山田寺の仏頭は、長い間、人々の前から姿を消していたのだが、1937年に東金堂が大規模な解体修理を行った際に、偶然、再発見された。山田寺が現存していたとしたら、仏頭は返却されなければならないであろう。だが、山田寺は廃寺となってしまったため、興福寺に保管され、境内にある国宝館で、その威厳ある姿を私たちに見せてくれている。
飛鳥の地に数々の寺院が建立された後、歴史の舞台は藤原京へと移る。持統、文武、元明という3代の天皇が都としたこの地は、わずか16年という短い間ながら、日本の歴史に鮮烈な足跡を残した。
『日本書紀』に記された藤原京の始まりは、持統天皇5(691)年に行われた地鎮祭ともいえる儀式、「使者を遣(つかわ)して新益京(しんやくのみやこ)を鎮め祭らしむ」に遡る。ただし、近年の研究では、その造営はそれ以前の天武天皇13(684)年から始まっていたという説が有力である。興味深いのは、この時代、藤原京と難波京という二つの都が同時に存在し、天皇がそれらを往来していたという事実である。
藤原京の中心には藤原宮が鎮座し、その周囲には数多くの寺院が立ち並んでいた。現在、その多くは廃寺となっているが、その痕跡は、当時の都と寺院が密接な関係にあったことを物語っている。藤原京の都市計画は、平城京や平安京のような条坊制には至っていないものの、縦横に走る道は、中国の都に倣った条坊制の原型と見ることができる。
ただし、この時代において、仏教の儀式は、寺院だけでなく王宮でも行われていた。葬儀の際の読経、経典の講義である講説、そして自身の罪を告白し、許しを請う悔過(けか)である。悔過は、カトリック教会の告解に似た儀式であるが、日本の仏教における罪は、アダムとイブに遡る原罪とは異なり、日々の過ちを意味する。それは、前世の悪業が現世に影響するという業の思想に基づくものであった。
また、僧侶たちが集まり、修行を行う安居(あんご)という行事も営まれた。これらの法会は、王宮と大官大寺という公的な寺院が分担して行った。藤原京以前は、王宮と仏寺が双方で公的な役割を担っていたのだ。
寺院で行われる仏事は、個人の祈願、つまり病気平癒や安産などを目的とした私的なものであった。一方、王宮は国家の安寧を祈る公的な場であった。
しかし、藤原京の時代になると、王宮での仏事はなくなり、大官大寺がその役割を担うようになった。これにより、寺院の重要性は増し、政治と宗教の役割分担が進んでいった。これは、現代の政教分離とは異なる独自の発展であった。
王宮が政治の場として特化していく中で、藤原京は日本の政治史における重要な転換点となった。その藤原京から平城京への遷都の背後には、唐の都、長安の強烈な影響があった。
遣唐使が見たものは、則天武后の壮大な宮殿であった。高さ10メートル、東西752メートル、南北422メートルという巨大な建造物は、藤原京をはるかに凌駕するもので、それに実際に接した日本の使節に衝撃を与えた。
「天子南面す」という中国の伝統があったにもかかわらず、藤原京は地形的な制約から王宮を南向きに建設することができなかった。また、汚水が流れ込む川の存在など、都市としての欠陥も抱えていた。
一方、長安は壮大で理想的な都市であった。このことが、藤原京を廃し、新たな都を建設する機運を高め、和銅3(710)年、平城京遷都へとつながっていくのである。
編集部より:この記事は島田裕巳氏のnote 2026年7月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は島田裕巳氏のnoteをご覧ください。







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