協調介入の裏で高まるリスク:円キャリー巻き戻しがブラックスワン

日米両政府が異例の協調介入に踏み切り、外国為替市場の風景は一変した。1ドル=163円台まで下落していた円は、一時156円台まで急上昇した。しかし円相場を短時間で大きく動かす協調介入には、別のリスクが潜んでいる。それが円キャリートレードの巻き戻しである。

 

円安を支えてきた巨大な取引

円キャリートレードとは、金利の低い円で資金を調達し、その資金を米国株や米国債、新興国資産、暗号資産など、より高い収益が期待できる資産に投資する取引である。円で1%程度の金利を払い、海外でより高い利回りを得る。

しかも円安が続けば、外貨資産を円に戻す際の為替差益まで得られる。日銀は2026年6月に政策金利を1%程度まで引き上げ、7月末の会合でも据え置いた。それでも米国などとの金利差は残っており、円は依然として主要な調達通貨である。

実際、米商品先物取引委員会(CFTC)の7月28日時点の統計では、投機筋の円先物は買いが10万1271枚だったのに対し、売りは26万4683枚に達していた。差し引き約16万枚で、2007年以来の大幅な売り越しである。(CFTC)

先物市場に表れるのは氷山の一角にすぎない。実際のキャリートレードには、銀行融資、為替スワップ、オプション、デリバティブ、海外ファンドによる相対取引などが含まれる。その全体像を正確に把握している人はいない。

円高が始まると利益構造が逆転する

ゆるやかな円安の相場では円キャリーは安定しているが、協調介入で円が急騰すると、取引の採算は一気に悪化する。

たとえば、円を借りてドル資産を買った投資家は、ドル金利と円金利の差を得ていても、円が数%上昇すれば、その利益を為替差損で失う。レバレッジをかけていれば、数円程度の円高でも損失は急拡大する。

投資家が損失を抑えるため、保有している米国株や債券などを売却してドルを調達し、そのドルを円に替えて借金を返済すると、海外資産の売却と円買いが同時に発生する。円高がさらに進み、損失が拡大し、別の投資家にも損切りを迫る。

こうして巻き戻しが自己増殖する。介入が成功して円が上昇するほど、キャリートレードの解消が加速する可能性があるという皮肉な構造である。

2024年8月に起きた「予行演習」

この危険は空想ではない。2024年8月には、日銀の利上げと米国の弱い雇用統計をきっかけに円が急上昇し、円キャリートレードの巻き戻しが起きた。

国際決済銀行(BIS)は、当時の円キャリートレードの規模について、中間的な推計で約40兆円、2500億ドル程度だったとしている。しかも、データに表れない取引が多いため、この数字は過小評価の可能性があると指摘した。(国際決済銀行)

円高を受けて投資家がポジションを解消すると、世界の株式市場で売却が広がった。国際通貨基金(IMF)も、日米金利差の縮小と円高がレバレッジをかけた円キャリートレードの巻き戻しを招き、株式市場の売りを加速させたと分析している。

重要なのは、大きな金融破綻や戦争が直接の引き金になったわけではない点である。日銀の小幅な利上げ、米雇用統計の悪化、円相場の反転という、それぞれ単独では世界恐慌を起こすような材料ではなかった。それでも、複数の要因が重なったことで、レバレッジの解消が世界的な株安を増幅した。

BISは、この混乱が「一見すると小さなニュース」の後に起きたと分析している。市場の表面に現れている材料よりも、その背後に隠れていたポジションの偏りが問題だったのである。

今回は政策当局が引き金を引いた

2024年と今回の最大の違いは、円高が自然発生したのではなく、日米両政府が意図的に円を押し上げたことである。

日本単独の介入は数日から数週間で円安に戻ったが、今回は米国が加わった。7月28日時点の投機筋の円売り越しは、先物だけでも約16万枚に達していた。これらが一斉に解消されれば、介入額そのものを上回る円買いが市場で発生する可能性がある。

さらに危険なのは、円を調達通貨にした取引が、為替市場の外側に広がっていることだ。円キャリーで購入された資産がAI関連株なのか、社債なのか、暗号資産なのか、新興国債券なのかは外部からは分からない。どこにレバレッジが集中し、どの資産から売却が始まるかも分からない。

ブラックスワンは「円高」ではない

厳密にいえば、円キャリートレードの巻き戻しそのものは、完全に予測不能なブラックスワンではない。2024年にも経験しており、IMFも2026年4月の金融安定報告で、円キャリーの解消が世界の資本フローに影響を及ぼす可能性を警告していた。(IMF)

予測できないのは、巻き戻しの規模と連鎖経路である。円がどこまで上昇すれば損切りが始まるのか。どのファンドがレバレッジをかけているのか。どの資産が最初に売られるのか。価格下落が証拠金不足を引き起こし、別の資産の売却に波及するのか。

特に要注意なのは、円キャリーが米国のAIバブルの資金源になっていることだ。ヘッジファンドがゼロ金利の円資金で、OracleやCoreWeaveなどハイリスクの社債に群がっているが、そのCDSスプレッドが急上昇している。

市場参加者は、こうしたポジションの全貌を知らない。したがってブラックスワンは、円が156円や150円になることではない。円高をきっかけに、誰も危険を想定していなかった市場で流動性が消滅し、強制売却が連鎖することである。

介入は成功しすぎても危険

円安を放置すれば、輸入物価が上昇し、日本の家計はさらに苦しくなる。だからといって、短期間に為替相場を大幅に動かせば、世界の金融市場に積み上がったレバレッジを一気に崩す可能性がある。

政府にとって望ましいのは、急激な円高ではなく、投機的な円売りを抑えながら、緩やかに相場を正常化することである。そのためには日銀による段階的な金融政策の正常化、財政への信認、インフレを悪化させる安易な減税や給付の抑制が必要になる。

次の金融ショックは、巨大銀行の破綻や地政学的危機から始まるとは限らない。世界で最も安価な調達通貨として使われてきた円が、突然買い戻されることによって始まるかもしれない。協調介入の裏側で、ブラックスワンの羽音はすでに聞こえている。

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