戦争犯罪で有罪判決を受け、オランダの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)のあるハーグで収監されてきた元ボスニア・セルビア人共和国の軍指導者ラトコ・ムラディッチ氏が27日、死去した。84歳だった。同氏は長年の逃亡生活の末に拘束され、裁判を経て2011年からハーグで収監されていた。「ボスニアの虐殺者」として知られるムラディッチ氏は、スレブレニツァの集団殺害(ジェノサイド)を含むボスニア紛争中の戦争犯罪の主要な責任者の一人だった。

ラトコ・ムラディッチ 2017年、国際戦犯法廷にて Wikipediaより
第2次世界大戦後、欧州で起きた最大の民族戦争と呼ばれたバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出した。1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えた。現在のボスニア・ヘルツェゴビナはボスニャク系(ボスニア・ムスリム)とクロアチア系両民族から構成されたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア系のスルプスカ共和国の二つの主体からなる連邦国家だ。
ムラディッチ氏はボスニアのセルビア人勢力の指導者ラドバン・カラジッチ氏の下、軍指導者としてボスニア紛争(1992~95年)で民族浄化政策を推進してきた。両者を含む数十人はICTYで有罪判決を受けた。カラジッチ氏は現在、終身刑が確定し、イギリスの拘置所に収監されている。
ムラディッチ氏らはボスニア紛争において、非セルビア系住民(イスラム教徒やクロアチア人)を排除する残酷な「民族浄化」を推し進めた。具体的には、国連が指定した安全地帯であったスレブレニツァで1995年、8,000人以上のイスラム教徒の成人男性・少年を組織的に殺害した。これは第二次世界大戦後の欧州で最悪の虐殺「スレブレ二ツァの虐殺」だ。遺体は集団埋葬地に埋められ、その後何度も別の場所へ埋め直されたが、今日に至るまで、すべての遺体の身元が特定されたわけではない。
その3年前、ムラディッチ司令官はボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した後、新しい首都サラエボを封鎖し、市への出入りは完全に遮断。市民は飢餓に苦しめられた。近代戦史上最長となる4年間続いたこの過酷な包囲戦の最中、およそ1万人が命を落とした。
元ボスニア・セルビア人共和国軍の総司令官であった同氏は、国連法廷で有罪判決を受けた戦争犯罪人が収容されるハーグの刑務所に拘束されていた。裁判に至るまでには、セルビア国内の多数の協力者に助けられながら16年以上にわたり逃亡生活を送った。その間、ボディガードに囲まれて公の場に姿を現したり、国外で目撃されたりすることもあった。2001年にセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチ氏が逮捕された後、同氏は地下に潜伏し、長期間にわたり逮捕を免れた。
しかし2011年、特殊部隊と検察当局は、セルビア東部の村にある親族の家で、当時69歳だったムラディッチ氏を早朝に急襲・拘束した。その後、ハ―グのICTYへ身柄を引き渡された。裁判は530日間に及び、約500人の証言が聴取された。被告が反省の意を示すことは一度もなかったといわれている。被害者の遺族を挑発する言動を繰り返したため、法廷から度々退廷させられるほどだった。
2017年、ムラディッチ氏はジェノサイド(集団殺害)や人道に対する罪など10の罪状で終身刑を言い渡された。ICTYは、元軍高官であった彼に対し、サラエボ包囲戦およびスレブレニツァでのジェノサイドについて有罪判決を下しました。この判決は、最終的に2021年、9つの罪状について支持(確定)された。ただし、プリイェドル、サンスキ・モスト、コトル・ヴァロシュ、フォチャ、ヴラセニツァといった他の自治体で行われた虐殺については、有罪判決が下されなかった。旧ユーゴスラビアで犯された残虐な戦争犯罪の代名詞となったのは、スレブレニツァだけだ。
一方、多くのセルビア人の間ではムラディッチ氏は生涯を通じて英雄視され続けた。2021年に有罪判決が確定した時、セルビア各地で彼を称えるメッセージが見られた。ベオグラード市内には「ラトコ・ムラディッチ、セルビアの英雄」と書かれた落書きもあったという。
スルプスカ共和国のミロラド・ドディク元大統領は、スレブレニツァでのジェノサイド(集団殺害)を「神話」であり「実際には起きなかったこと」だと主張。国外の極右過激派の間ではムラジッチ氏は英雄として最後まで崇拝されてきた。今日においても、セルビアやスルプスカ共和国の多くの人々は、「スレブレニツァの虐殺」をジェノサイドと呼ぶことを拒み続けている。
国家の統合には歴史の共有が不可欠だ。その役割を担うのが学校では歴史教育だが、ボスニアでは、教科書も中央政府によって統制されておらず、各機関の責任となっている。そのため、クロアチア人、ボスニャク人、セルビア人の生徒は、ボスニア紛争だけでなく、スレブレニツァでの大量虐殺についても、それぞれ異なる物語(ナラティブ)を教えられている。ウォルフガング・ぺトリッチュ元ボスニア和平履行会議上級代表は05年、筆者とのインタビューで、「ボスニアでは冷たい和平が支配している。ボスニア紛争は内戦だった。勝利者と被占領者に分かれる戦争とは異なり、内戦には勝者はなく、敗者しか存在しない」と語ったことを思い出す。
なお、国際的な圧力を受けて、2003年に中央慰霊碑がスレブレニツァから数㌔離れたポトチャリに開設され、そこには約7000人の犠牲者が埋葬された。また、国連総会は、7月11日を「スレブレニツァ虐殺の国際追悼の日」とする決議を採択している。
「スレブレニツァ虐殺」の象徴であったムラディッチ氏の死去は、決して歴史の悲劇の終焉を意味しない。その痛みと悔恨は消えることがないからだ。惨禍の記憶を語り継ぐ責任がある。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年8月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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