東京大学大学院教育学研究科の本田由紀教授が、皇族関係者の写真を引用したXの投稿に対し、「遺伝的要因のおそろしさを感じる。露出の増加が逆効果になるかもしれない」と投稿し、批判が広がっている。
発端となったのは、皇族費の増額を報じるニュースだった。そこから皇族やその親族の「血筋」に言及する投稿が現れ、本田氏がそれを引用する形で「遺伝的要因のおそろしさ」と書き込んだ。
皇族費の増額に反対することはもちろん自由である。皇室制度そのものに批判的な立場を取ることも、言論の自由の範囲だ。
しかし、政策や制度への批判と、個人の容姿や性格を「遺伝」や「血筋」に結びつけることは、まったく別の話ではないだろうか。

本多由紀教授と志位和夫議長 日本共産党HPより
東大教授がして大丈夫な表現なのか
どちらかというと「リベラル」の東浩紀氏は、本田教授の投稿について「これ東大教授がして大丈夫な表現なのか」という当然の疑問を呈している。
教育関係者からも批判が出ており、日本教育学会会員の大学教員からは、本田氏の発言について「特定の人々に対する否定的評価を遺伝と血統に結びつける」ものだとして、投稿の撤回や説明を求める声明も出されている。
今回の問題は、単なる「皇室への失礼な発言」という話ではない。本田教授の「遺伝的要因」という言葉をそのまま読めば、人間の外見や人格的特徴を遺伝によって評価し、それを「おそろしい」と表現したようにも受け取れる。
もちろん、本田教授が具体的に何を「遺伝的要因」と呼んだのかは投稿だけでは明確ではない。しかし、だからこそ大学教授、それも教育や社会の不平等を研究してきた研究者の表現としては、あまりに不用意だったと言わざるを得ない。
普段なら「差別」と批判する表現ではないのか
さらにネット上で注目されているのが、いわゆるリベラル層のダブルスタンダードである。
仮に誰かが外国人や特定の民族、あるいは社会的少数者の写真を見て、「遺伝的要因のおそろしさを感じる」と発言したらどうなるだろうか。
おそらく「差別的だ」「優生思想につながる」「大学教授として不適切だ」と激しい批判が起きるはずだ。
ところが対象が皇族や保守系政治家の親族になると、同じ種類の表現に対する警戒心が急に弱くなる。今回、多くの人が違和感を抱いているのはそこだろう。
差別を問題にするのであれば、相手によって基準を変えてはいけない。自分が共感する少数者への侮辱は許さないが、自分が嫌いな政治家や皇族への侮辱は許すというのでは、それは人権思想ではなく単なる党派性である。
「血筋」を批判して「血筋」に頼る矛盾
そもそも皇室制度に批判的な人々は、皇位継承について「血筋を重視する制度は時代遅れだ」と主張することが多い。それ自体は一つの政治的立場として理解できる。
ところが、その皇族を批判するときには「血筋」や「遺伝」を持ち出す。この構図はいささか奇妙だ。血統主義を批判する側が、人物を攻撃する場面では血統を根拠にする。これでは思想として整合しない。
まして現代社会では、遺伝や出自は本人が選べない属性の典型である。本人の努力で変えられない属性を理由に人を評価すべきではないというのは、むしろリベラルな社会思想が長年強調してきた原則だったはずだ。
大学教授だからこそ問われる言葉
大学教授だから政治的発言をしてはいけない、という話ではない。研究者にも当然、思想・信条と言論の自由がある。
しかし大学教授という肩書が発言に一定の社会的影響力を与えるのも事実だ。特に教育や差別、社会的不平等を論じてきた研究者であれば、自らが使う言葉について厳しい基準を求められるのは避けられない。
今回の騒動で問われているのは、本田氏個人の皇室観だけではない。
「差別はいけない」という原則が、本当に誰に対しても同じように適用されているのか。それとも、自分たちが批判したい相手についてだけは例外なのか。
差別に敏感であることを自任する人ほど、自分の側の言葉にも同じ基準を適用しなければならない。リベラルを名乗るのであれば、なおさらである。
そして、東大からの頭脳流出の原因は、予算の問題だけではないのかもしれない。









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