『常夜の読書会』で考える分断された社会の処方箋

「論壇」の衰退と『常夜の読書会』の試み

かつて言論の主戦場であった新聞や雑誌は部数減少にあえぎ、いまや限られた読者獲得のために、それぞれのイデオロギーを先鋭化させ、支持者の歓心を得るための誌面が組まれるようになった。その結果、社会の分断と対立の深刻なうねりへとつながってしまった。

このような息苦しい情報環境の中で、一歩身を引き、さまざまな分野の第一線で活躍する岩間陽子 、開沼博、佐々木俊尚、東畑開人、與那覇潤という5名の識者たちが集まって開催されているのが『常夜の読書会』(潮出版社)という試みである。

あらかじめ決められた課題図書を読んで議論が行われ、その集まりではそれぞれに問題意識が共有され、学問領域の垣根を越えた活発な意見が交わされている。効率やスピードで世を急かす現代社会とは違い、意見を異にする相手にも耳を傾け、他者を信頼した上で多様な視点から真摯に語り合うその姿は、バラバラになった社会において「場」を作り直すための貴重な営みのお手本と言えるだろう。

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例えば、第一章で取りあがられているオルテガの『大衆の反逆』は、タイトルだけ見るとわかりやすい本である。「大衆」が増長し、社会を壊している――そんな本だと思ってしまう。

しかし、この読書会での対話に触れると、それほど単純ではないことがわかる。おもしろかったのは、同じ本を読んでいるはずの與那覇、佐々木、開沼、岩間、東畑各氏が、それぞれかなり違う視点から『大衆の反逆』を読んでいることである。

専門家は本当に「エリート」なのか

佐々木氏が注目するのは、専門家やメディアと大衆の関係である。

かつてテレビでは、専門家が専門家であるというだけで権威をもっていた。原発事故でも感染症でも国際問題でも、「先生」の説明を世間が聞くという形だった。ところが今では、その権威はかなり弱くなった。これは単に大衆が愚かになったからではない。専門家の側にも問題がある。

専門知識は細分化され、ある分野について詳しい人が社会全体についてまで正しいとは限らない。しかも専門家同士で意見が割れる。昨日まで断言していた人が今日は違うことを言う。それをSNSで誰でも確認できるようになった。

開沼氏は、この専門家の問題に加え、「社会はどんどん悪くなる」という没落論へのオルテガによる批判として読んでいる。その結果、「悪くしているのは誰か」という犯人探しに行きつくという問題は、現代もまったく変わっていないだろう。

1930年代の危機は終わっていない

これに対して與那覇氏の読み方は、もっと政治的である。オルテガがこの本を書いたのは、戦争と革命と社会不安の時代だった。人々が既存の秩序を信用しなくなり、政治も知識人も自信を失っていた。そしてその中で、精神的に「貴族なのか、大衆か」という命題を提示している。

SNSでは、政治家も学者も新聞もテレビも同じ画面に並ぶ。権威の序列は崩れ、「誰が正しいか」を決める共通の物差しもなくなった。オルテガの時代とは技術が違うだけで、社会の落ち着かなさはむしろ似ている。

『大衆の反逆』が100年近くたっても古びない理由はそこにあるのかもしれない。

「大衆対専門家」という構図そのものを疑う

また、開沼氏の発言で興味深いのは、「大衆」と「専門家」を単純に二つに分けてしまうことへの警戒である。原発事故やコロナ禍のような問題では、それが特に露骨に表れた。

もちろん「専門家だから正しい」とも必ずしも言えないし、だからといって「大衆の直感だから正しい」とも言えない。社会の複雑化によって、オルテガの時代より境界線そのものが曖昧になっている。しかし、専門家を批判するわれわれに「社会を支えていく」という気概はあるのだろうか。

この読み方に触れると、『大衆の反逆』は、「誰が社会に対する責任を持っているのか」というより大きな問いを投げかける本質が見えてくる。

さらに広がる「オルテガ」論

さらに別の視点から興味深いのが、岩間氏と東畑氏の発言である。

岩間氏は、オルテガの議論をそのまま「大衆批判」として受け取ることに慎重だ。大衆を批判する知識人自身が、大衆から理解されなければ、その言葉は誰に届くのか。これはかなり厄介な問題である。

一方で東畑氏は、オルテガをヨーロッパの歴史の中に置く。戦争とインフレを経験した中産階級、社会への信頼の崩壊、民主主義と私生活の境界。それらを考えると、『大衆の反逆』は単なるエリート主義の本ではなく、近代社会そのものの不安定さを描いた本に見えてくる。

ここでは同じ文章が、政治論にも、メディア論にも、ヨーロッパ論にもなる。

読書会の価値は「正解」を決めないことにある

5人は同じ本について話している。しかし見えているものは同じではない。佐々木氏には専門家やマスメディアの権威の崩壊が見え、與那覇氏には現代政治の危うさが見えるといった具合に。

もちろん、どれか一つが正解というわけではない。

むしろ古典とは、時代によって違うものが見えてくる本なのだろう。『大衆の反逆』が今も読まれるのは、オルテガが100年前に現代社会の答えを書いたからではない。100年後の読者が、自分たちの問題をそこに発見できるからである。

この読書会は、そのことをよく示している。同じ本を読みながら、これほど違う景色を見ることができる。その「ずれ」こそが、ひとりで読むのとは違う読書会のおもしろさなのであり、そのまま「分断された社会の処方箋」になると思われるのだ。


常夜の読書会

【目次】
第一章 『大衆の反逆』が現代社会に問いかけるもの。―オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
第二章 感情に埋め尽くされた言葉の荒野で。―アリストテレス『弁論術』
第三章 知性に「品位」を宿すには。―マックス・ウェーバー『仕事としての学問 仕事としての政治』
第四章 制御不能な社会の不安と「共同体」論。―ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊』
第五章 「文化」に戦争を止める力はあるか。―A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』
第六章 文学で読み解くロシア。―井筒俊彦『ロシア的人間』
第七章 ”分断される社会”にこそ「中道の哲学」が求められている。―森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』
第八章 戦後の論壇と高坂正堯の視座。―高坂正堯『宰相 吉田茂』『平和と危機の構造』
第九章 昭和から令和へ―日本人の「夢」はどこに行ったのか。―田中角栄『日本列島改造論』

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