
10月最初の金曜日。東京・早稲田に来ました。早稲田大学に通う学生が多く行きかう賑やかな町。そんな中、駅から大学とは反対方向に延びる道を歩きます。通りの名は漱石山房通り。夏目漱石が明治40年9月から大正5年に亡くなるまでを過ごした終の棲家である「漱石山房」がある通りです。
明治30年ごろに建てられた和洋折衷の平屋建てだったそうですが、その場所に今は漱石山房記念館が建てられ、当時の山房を再現した施設や、漱石の作品や、漱石にまつわる人々の紹介などの展示がされています。

漱石山房記念館までは名前のない猫が案内してくれる。

途中、立派な建物がありました。私立高校かな?と思ったらなんと幼稚園!4階建ての幼稚園なんて初めてみました。

幼稚園の大きさにおののきつつ歩いているうちに、漱石山房記念館に到着しました。この場所こそ夏目漱石終焉の地。東京大学の教授を辞したあと、職業作家として「三四郎」「それから」「門」「こころ」などの名作を生みだし、49歳でこの世を去りました。昭和20年5月25日の山手空襲によって山房は焼失しますが、平成29年に改めて漱石を偲ぶ記念館がここに開業しています。

漱石山房記念館の中には漱石がかつて執筆に勤しんだ書斎が復元されています。さほど広くない書斎は書で埋め尽くされています。彼の数々の名作は、狭い中に彼の知が凝縮された世界から生み出されました。

漱石の暮らした漱石山房は和洋折衷の建物であり、モダンなベランダ回廊が特徴だったそうです。記念館ではそんなベランダ回廊まで再現しており、かつて漱石が住んだ家をリアルに再現しています。と、向こうに黒猫がいますね。

駅からの道だけでなく、館内もこの「名もなき猫」が案内してくれるようです。ちなみに吾輩は猫であるの猫は黒猫と断定されてはないようです。

ベランダ回廊の先に漱石…の蝋人形が佇んでいました。椅子がちょっと今っぽいですが、ベランダ回廊で景色を見つつ、次の作品の構想を練っていたのかもしれません。

階段を登った先は漱石が作品中に残した印象的なフレーズを紹介。

「草枕」の中の有名な一節。漱石が人間関係の悩みや窮屈さに喘いでいたことを窺わせます。100年前の著名な作家でも同じことを悩んでいたんだと思うとちょっと安心します。

友人を裏切り罪悪感を抱きながら生きてきた先生が青年に向けて書いた遺書の一節です。立派な生き方はしてこなかったけど、精いっぱい生きた自分の生き方から何かを学んでもらいたい。晩年、病に苦しみ老い先短い漱石は先生に思いを重ねてこの一節を著したのかもしれません。

記念館の中には漱石の作品を自由に読むことができるスペースがあります。カフェもあるのでここでゆっくり時間を取って夏目漱石の世界に浸るのもいいと思います。

漱石山房記念館を出たあとは早稲田駅に戻り、そこからさらに西にある穴八幡宮へ。冬至から節分までの間に配られる金銀利益のお守り一陽来復守が有名な神社ですが、漱石夫人がここで虫封じの祈願を行ったことでも知られています。

朱の鮮やかな楼門

一陽来復守が配られる時期にはこの境内は多くの人で賑わう。

早稲田駅前のやよい軒の前には漱石生誕の地の石碑があります。実は漱石は早稲田に生まれ、早稲田で最期を迎えました。養子に出されて波乱に満ちた幼少期を送ったかと思えば、イギリスに留学したり熊本に赴任したりと東京を離れた時期も多かった漱石ですが、最後はやはり自らが生まれた早稲田に居を構え執筆に勤しみました。
学生の町という印象が強い早稲田ですが見渡すと漱石の生きた跡がそこかしこに見えてきます。彼の書を携えて、彼の影を追いつつ早稲田の町を歩くのも楽しいのではないかと思いました。

(熊本時代の夏目漱石をたどった街歩きもしています。興味ある方はこちらをどうぞ!)
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年10月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。







コメント