クルト・ワルトハイム「最も辛かったのは私を見つめていた家族の可哀そうな姿だった」
上記の言葉は、第4代国連事務総長(任期1972~1981年)を10年間勤めた後、第6代オーストリア大統領(1986~1992年)となったオーストリアのクルト・ワルトハイム氏の著書「返答」の中で述べられている。

会見後、当方との記念写真に応じたワルトハイム氏(1994年11月15日、ウィーンで)
10年間、国連事務総長を務めた後、ワルトハイム氏は国民党の要請を受けて大統領選に出馬を決めると、「世界ユダヤ人協会」ばかりか、欧米主要国が激しく反対し、世界のメディアを巻き込んだ反ワルトハイム陣営が構築されていった。ナチスの青年将校だったワルトハイム氏の戦争犯罪関与容疑について国内では意見が分かれたものの、輝かしい外交経歴を誇るワルトハイム氏は大統領選で勝利した。ワルトハイム氏が大統領に選出されると、世界の主要国はオーストリアとの外交接触を拒否し、外国国家元首のウィーン公式訪問は途絶えた。同氏は大統領時代、“寂しい大統領”と冷笑された。同氏が再選出馬を断念するまでバッシングは続いた。

クルト・ワルトハイム氏 Wikipediaより
同氏への批判のポイントは、同氏が通訳将校として派遣された旧ユーゴスラビア戦線で、ナチス軍の虐殺行為に関与したかどうかだったが、その疑問には既に答えが出ていた。国際戦争歴史学者たちが調査した結果、「ワルトハイム氏が戦争犯罪に関与したことを実証する情報は見つからなかった」と明らかにした。また、著名なナチ・ハンターのサイモン・ヴィ―ゼンタール氏も当時、「ワルトハイム氏がナチスの戦争犯罪に関与した証拠はない」と認めたが、ワルトハイム氏の戦争犯罪容疑報道だけが独り歩きし、激しいメディア攻撃が続いた。
当方は1994年11月、大統領退陣した直後のワルトハイム氏と45分間、単独会見したことがあるが、同氏は会見前に「インタビューの前に君の質問内容を教えてほしい」と打診してきた。同氏が戦争犯罪問題を追及されるのではないかと懸念していたことが分かった。そこで当方は国連事務総長を務めた同氏から国連改革の見通しなどについて聞きたい旨を伝えると、同氏は表情を緩め、「それではインタビューを始めて下さい」と答えた。メディアから過去問題を叩かれ続けたワルトハイム氏はメディア関係者との接触には非常に神経質であることを改めて知った。
ワルトハイム氏は大統領退任後、自身の戦争犯罪容疑問題に対して著書「返答」を発表し、そこで「自分は国民の1人としてその義務を果たしただけだ。自分は一将校に過ぎず、いかなる意思決定にも加わる立場ではなかった」と改めて弁明。そして上記の「私にとって最も辛かったことは・・」という箇所の記述となったわけだ。
アドルフ・ヒトラーが率いるナチス政権は1938年3月13日、オーストリアを併合、同15日、ヒトラーは首都ウィ―ンの英雄広場で凱旋演説した。同広場には約20万人の市民が集まり、ヒトラーの凱旋を大歓迎した。オーストリアは戦後、「モスクワ宣言」を拠り所としてヒトラーの戦争犯罪の被害国と主張してきた。同国がヒトラーの戦争犯罪の共犯だったことを正式に認めたのはフラニツキー政権(任期1986年6月~96年3月)が誕生してからだ。
いずれにしても、ワルトハイム氏の戦争犯罪容疑問題は国民に歴史の再考を促す契機となった。その意味でオーストリア歴史にとって重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。ただ、その背後でワルトハイム氏の家族はメディアの激しい中傷・誹謗を甘受せざるを得なかったわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年10月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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