復讐や報復は自分自身も傷つける:SNSで闘い続ける人へ

感染症専門医の岡秀昭氏が、X(旧Twitter)のアカウント凍結をめぐる騒動の渦中にいる。

2026年10月13日、岡氏のアカウントから未払い金の差押えを報告する投稿がなされた。添付された「陳述書」の画像には、差押えの対象として「通常貯金1件」と金額が記載されていた。その後、従来のアカウントの凍結が話題となり、解除や別アカウントの出現、再凍結をめぐる情報も飛び交っている。

ただし、Xが何を理由に凍結したのか、別アカウントを誰が運用しているのかは確認できない。事実関係の分からない部分を断定するつもりはない。

私が考えたいのは、感染症の専門家として始めた情報発信が、なぜ数年にわたるSNS上の争いとなり、今なお終わりが見えないのか、ということである。

発端となったシンガポール旅行

2023年春、岡氏は家族とシンガポールを旅行し、COVID-19に感染した。

2025年の文春オンラインのインタビューで、岡氏は旅行中に撮った家族写真を私用のInstagramに投稿し、第三者によってXに無断転載された経緯を説明している。

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当時、感染症対策を積極的に訴えていた岡氏には、旅行や感染をめぐる批判が集中した。容姿への侮辱や家族への脅迫にも発展したという。

私は旅行したことも、感染したことも、何ら非難されるべきではないと考える。感染症が流行しているとされる状況でも、人々には旅行し、人生を楽しむ自由がある。感染したからといって、その選択が間違いだったことにはならない。

むしろ岡氏には、感染症専門医として「流行中でも旅行することは問題ない。感染したからといって責められる理由はない」と堂々と発信してほしかった。感染者の行動歴が詮索され、ともすれば感染自体が非難された時代である。感染予防と個人の自由は両立できると伝える機会にもなったはずだ。

ただし、感染対策を社会に訴えてきた専門家の言動が、市民による批判的検証の対象となるのは当然だ。専門家だから批判を免れるわけではない。

旅行する自由も、専門家を批判する自由も尊重されるべきである。

一方、批判が侮辱や脅迫に至れば話は別だ。岡氏が発信者情報開示請求や損害賠償請求に踏み切ったのは、被害回復のための正当な権利行使である。

司法的救済と復讐は違う

岡氏はその後、訴訟の経過や結果をSNSで繰り返し報告してきた。そして今回、未払い金の差押えを知らせる投稿に、裁判手続きに関する陳述書の画像を添えた。私が確認できる画像では、差押えの対象とされた貯金の種類と金額が読み取れる。ただし、口座の記号番号が元の投稿で公開されていたかどうかまでは確認できない。

ここで考えてほしいのは、金融情報を公開することの危険性である。

金融機関によっては、振込先の口座情報から名義人の氏名を確認できる。匿名で活動する人物であれば、口座番号の公開が実名特定につながる可能性がある。

さらに、他の個人情報と組み合わせることで、本人を装った連絡やフィッシング詐欺などに悪用されるおそれもある。口座情報だけで不正出金ができるわけではないが、第三者に不必要な情報を与えること自体がリスクとなる。

もちろん、今回の投稿によってこうした被害が生じたと主張しているのではない。問題は、裁判手続きで得た金融情報を不特定多数に公開する必要があったのか、ということだ。

債権を回収する権利と、相手のプライバシーを公開する権利は同じではない。

ここで思い出してほしいのは、岡氏自身が家族写真を無断転載され、被害を受けた経験である。他人のプライバシーに関わる情報にも、同じ慎重さが求められるのではないか。

被害者だったからといって、その後の行動がすべて正当化されるわけではない。司法的救済は侵害された権利を回復するためのもので、相手への復讐とは異なる。

岡氏の行動が復讐心によるものだと決めつけるつもりはない。ただ、法的手続きで権利を守ることと、SNSで相手との争いを続けることは分けてほしい。

復讐や報復は、相手だけでなく自分自身も傷つける。

争いが続けば時間や労力が奪われ、新たな対立を生む。SNS上で得た一時の喝采より、失うものの方が大きくなることもある。

称賛してくれる人は、本当に味方なのか

私は以前、noteで「Frontline Bias(前線バイアス)」という考え方を紹介した。

「コロナは恐怖の死病」という物語:コロナ病棟は「リアル版フィルターバブル」だったのか――Frontline Biasという落とし穴|George・九条
コロナ禍を振り返ると、医療者からこんな言葉を何度も聞いた。 「現場を見ていない人には分からない」 「毎日、呼吸もままならない患者を診ている」 「これだけ多くの人が亡くなる感染症を軽く見るべきではない」 これらの言葉を嘘だと言いたいわけではな...

重症患者の集まる病院で医師が見る疾病像と、社会全体の疾病像は異なり得る。目の前の体験が本物でも、それが世の中のすべてとは限らない。

SNSも同じだ。フォローやブロック、表示アルゴリズムによって、目に入る意見は選別される。

「そこまでやる必要があるのか」「もう十分ではないか」。そんな苦言まで敵意と受け取って遠ざければ、残るのは自分を肯定する声ばかりになりかねない。

SNSには本人の将来を案じる支持者もいれば、対立が激しくなるのを面白がる観客もいる。友人のように振る舞いながら、結果として本人を危うくする「フレネミー」だ。

岡氏の支持者がそうした人々ばかりだと言いたいのではない。だが「もっとやれ」と煽る人は、訴訟の負担も信用を失う痛みも引き受けてくれない。炎上を楽しむ観客が去った後も、当事者の人生は続く。

称賛する人が味方とは限らない。苦言を呈する人が敵とも限らない。

「唐津に来て、酒でも飲んで釣りをしよう」

2024年当時、ライターの中川淳一郎氏は、岡氏に唐津へ来て酒を飲み、釣りをしようと呼びかけた。中川氏はコロナ対策をめぐって岡氏とは反対の立場にいた。この誘いには、不毛な対立を終わらせようとする意味があったのではないか。

意見が異なっても、一緒に酒を飲み、釣りを楽しむことはできる。互いの主張を撤回する必要も、敗北を認める必要もない。

私には、むしろコロナ対策で岡氏と反対の立場にいた人たちの中に、今の岡氏を心配している人がいるように見える。

もっとも、私自身が別のフィルターバブルの中にいるから、そう見えるのかもしれない。私もコロナ対策を批判してきた。自分に都合のよい発言ばかりを見て、反対側にいる人の善意を見落としていないか。これは私自身への問いでもある。

それでも、対立を煽る声援より、「酒でも飲んで釣りをしよう」という誘いの方が、本人の人生にとって意味を持つこともあるだろう。

立場が違うことと、相手の不幸を望むことは同じではない。

立ち止まることは敗北ではない

今回の凍結騒動は、長く続いたSNS上の争いから距離を置く機会にもなり得る。

法的権利を放棄する必要はない。必要な訴訟は司法の場で進めればよい。ただし、SNS上での応酬まで続ける必要があるだろうか。

岡氏が感染症医として培ってきた経験や知識が、SNS上の争いばかりで語られるのは惜しい。科学の世界で自説を修正することは敗北ではない。異論を聞き、判断を改めることこそ専門家の強さだろう。

私が岡氏に伝えたいのは、非難でも謝罪の要求でもない。これ以上、争いによってご自身を傷つけてほしくないのである。称賛だけでなく、耳の痛い助言にも目を向けてほしい。相手への怒りに人生の貴重な時間を費やし続ける必要はない。

闘いを終わらせることは負けではない。自分の意思で争いを終わらせるのも、一つの強さだと思う。

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私のnoteでは、アゴラ記事で紹介しきれない資料や検証過程も公開している。感染症対策や医療制度について、より詳しく掘り下げている。

George・九条|note
私は大学に所属しない独立研究者です。制度や政策の「それ本当にそうなのか?」を、一次資料や論文まで戻って調べています。・研究の裏側 → 村人A・面白い論文 → 知られざる論文の世界・コロナを文化から考える → コロナ×作品・日本のコロナ政策検...

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