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こんにちは。自由主義研究所の藤丸です。
今回は、アメリカの自由主義系シンクタンク・ケイトー研究所のホームページ掲載の記事を紹介します。
アルゼンチンでは、ペロンが失脚した後も、政府による産業保護や経済への介入といった、ペロン主義の政策の方向性が長く引き継がれました。
一度生まれた既得権益は、政権が代わっても簡単にはなくならず、こうした政策がアルゼンチンの長期的な衰退を招いたと、この記事の著者は指摘しています。
これは、現在の日本にとっても、決して他人事ではないのではないでしょうか。
「経済成長」や「産業振興」の名のもとに、政府が補助金を配り、特定の産業を保護し、規制によって経済を誘導する。そうした政策が新たな既得権益を生み、さらに政府の介入を求める構造を作り出しているのではないでしょうか。
もちろん、日本とアルゼンチンでは歴史も経済状況も異なります。しかし、このまま政府主導の経済政策を続ければ、日本もまた、長期的な衰退から抜け出せなくなるかもしれません。
アルゼンチンの歴史は、私たち日本人にとっても重要な警告を含んでいると思います。

元記事は、アルゼンチンの『ラ・ナシオン』紙に掲載されたMarcos Falcone(マルコス・ファルコーネ)氏の記事に基づいています。
La pesada herencia del 17 de octubre
※訳注と太字は筆者です。
アルゼンチンが衰退を選んだ日
81年前の今日(訳注:10月17日)、アルゼンチンが軍事独裁政権下にあったとき、数千人の抗議者がブエノスアイレスの五月広場に集まり、フアン・ドミンゴ・ペロン大佐の釈放を要求した。副大統領だったペロンは、人気が高まり、大統領を目指す野心が強まるなか、自分の同僚たちによって逮捕されていた。しかし、10月17日の大規模なデモの後、ペロンは釈放された。
この日は、後に彼の支持者たちによって「忠誠の日」と呼ばれるようになった。そして、アルゼンチンにおける政治のゲームのルールが、二度と以前と同じには戻らないことが明らかになった。
しかし、当時、明らかでなかったことは、21世紀に入ってかなりの年月が経過した現在に至るまで、アルゼンチン国民がその変化の代償を払い続けることになるという点である。
それよりほぼ1世紀前、1853年憲法は経済的自由主義の時代を切り開いた。そのおかげで、アルゼンチンは19世紀末から20世紀初頭にかけての数十年間、世界で最も豊かな10か国の一つという地位を余裕をもって維持していた。
その制度は完全とはほど遠く、選挙不正や汚職も存在していたが、国家が経済を計画しようとすることはなく、起業家たちはおおむね自由に「挑戦してみる」ことができた。これは、ディアドラ・マクロスキー(訳注:アメリカの経済学者)が経済成長に不可欠な条件として指摘したものである。
世界経済との統合をますます深めていたアルゼンチン経済は、輸出を基盤として成り立っていた。そこにこそ、この国の比較優位があった。
1945年の時点で、ペロンは決して新参者ではなかった。すでに1930年のクーデターにも参加していたのである。熟練した政治家だった彼は、1943年に成立した独裁政権の労働長官という地位を利用して、労働組合の支持を獲得する一連の措置を導入した。企業に都市部での賃金引き上げを強制する一方、農村部では賃金を凍結し、自分に好意的な裁判官を配置した労働裁判所制度を創設するなどしたのである。10月17日に大衆が祝っていたのは、まさにこうした政策だった。
また、ペロンが特に独創的だったわけでもない。第二次世界大戦前に訓練のためイタリアに派遣された彼は、ベニート・ムッソリーニに心酔し、そのファシズムを「現代の偉大な精神運動」と表現していた。
しかし、ナチズム・ファシズムへの共感はペロンだけのものではなく、経済への国家介入の拡大を支持する姿勢も彼だけのものではなかった。世界恐慌の発生とともに、コーポラティズム(※)と保護主義はすでに世界各地で台頭していたのである。それでも、歴史家ロベルト・コルテス・コンデが書いたように、20世紀後半のアルゼンチン社会に、ペロン主義ほど大きな影響を与えたものはなかった。
(※)訳注:コーポラティズム(職能団体主義)とは
政府が労働組合や業界団体などを経済政策の決定に組み込み、各団体の利害を調整しながら経済を管理する仕組み。ペロン政権下のアルゼンチンでは、政府が労働組合や国内産業に保護や特権を与える一方、それらの団体が政府の政策を支える体制が形成された。
訳注:自由な市場と、ペロン主義的コーポラティズムの違いは以下の表を参照下さい。

10月17日が重要なのは、ペロンが、まだ形成され始めたばかりだったコーポラティズムと保護主義の体制を、極限まで推し進めたからである。彼以前にも国家介入は徐々に拡大していたが、1946年に大統領に選出されると、ペロンはそれを徹底的に推し進めた。
1940年代が終わる前に、政府支出はGDPの45%を超えた。これは近代アルゼンチンではかつて見られなかった水準だった。ペロンの在任中、中央銀行の準備資産は75%減少し、これも前例のないことだった。
対外貿易は国家によって独占され、国家は当初、輸出業者の収入の半分以上を取り上げていた。一方、輸入関税率は1950年までに推定で過去最高の500%に達した。収用は、報道機関や鉄道から年金基金に至るまで、広範囲に及んだ。
巨額の補助金がばらまかれ、ペロン政権の最初の3年間で工業部門の労働者の実質賃金が35%上昇したことも、驚くには当たらない。しかし、その政策は経済の現実から完全に乖離していた。
公共部門では、次々と資金源を取り上げることによってしか高水準の支出を維持できず、ペロンは実際にそうした。民間部門では、企業経営者が補填を受けなければ、より高い賃金を支払うことはできなかった。政府は、補助金付きの融資や公共料金、製造業を優遇するために設けられた関税を通じて、その補填も行った。
その費用を賄うため、ペロンは、数十年前に姿を消していたインフレに頼った。しかし、それでも十分ではなかった。結局、輸出価格が不利な状況になると、ペロン自身も緊縮政策を実施せざるを得なくなった。不況は当初の好況と同じくらい激しいものだった。1955年までに、賃金は当初の水準に戻るか、あるいはそれ以前よりもさらに低い水準にまで落ち込んでいた。
この循環が現在のアルゼンチンと非常によく似ているように思えるとすれば、それは、ペロン主義の政策から利益を得ていた人々、すなわち産業資本家たちと、いまや強大な力を持つようになった労働組合が、その利益を簡単に手放そうとはしなかったからである。そのため、ペロン主義体制は、その創始者よりも長く存続した。
ペロンは1955年のクーデターによって失脚し、1949年のペロン主義憲法も無効とされたが、その中心的な要素は、1957年に軍部自身によって、第14条への追加条項を通じて憲法に取り入れられた。この条項は現在も効力を持っている。
その後に登場した非ペロン主義者たちも、アルゼンチン経済を世界から閉ざし、産業計画を実施し、アルゼンチンの比較優位を否定した。そしてもちろん、1973年にペロンが政権に復帰すると、彼は再びペロン主義を実践した。
このコーポラティズムと保護主義の体制が存続したことには、明確な結果があった。1945年には、アルゼンチンの一人当たりGDPはスペインの2倍だったが、1990年にはスペインの約半分になっていた。アルゼンチンは、かつて同水準にあった国々のほぼすべてに追い越されたのである。
自国を閉ざすことによって、アルゼンチンは第二次世界大戦後に世界中で進展した貿易の統合を拒絶した。そして、ここ数十年間に何度か経済開放が試みられたにもかかわらず、完全に開放されることは一度もなかった。
ペロン以前は、政治が経済に奉仕していた。しかし、ペロン以後は、経済が政治に奉仕するようになった。10月17日は、この逆転が生まれたことを示す日である。したがって、この日付の本当の重要性は、その日に起きた出来事そのものではなく、その出来事が後に残したものにある。それは、国家による計画的な工業化という誤った考え方であり、この考え方が生み出した経済状況は、今日に至るまで覆すことが極めて難しいものとなっている。
アルゼンチンは、その遺産を解消し始めている。ミレイ政権は財政収支を均衡させ、3桁に達していたインフレ率を引き下げ、数百に及ぶ規制緩和措置を実施した。また、輸出税の引き下げを開始し、貿易と投資に対して経済を再び開放する取り組みも始めた。しかし、なすべき仕事はまだ終わりにはほど遠い。
生産活動を担う民間部門は、依然として重い税負担、輸出税、平均よりも高い関税、そして複雑で厳しい規制に苦しめられている。保護された産業から既得権益を持つ労働組合に至るまで、国家主導の経済に依存する利益集団は、ほとんどすべての変革に抵抗している。
10月17日の遺産は、悲しいものであると同時に、はっきりと実感できるものである。81年前のこの日に五月広場へ集まった人々は、その後の出来事がどのように展開するかを予見できなかった。しかし、だからといって、その出来事の悲劇性が少しでも薄れるわけではない。
この日付は、アルゼンチンがあの日に定めた進路を引き続き転換していくことが、いかに差し迫って必要であるかを思い起こさせるものでなければならない。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2026年10月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。







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