
『なぜ「まちがえた」と言えないのか』をめぐって、久しぶりに経営学者の舟津昌平さんと議論した。初めての対談は2024年の春で、テーマも次のとおりだったから、2年半ぶりの答えあわせみたいなものである。

が、ネットの反応に「うーむ」と唸ってしまった。対談での指摘の正しさが、そのまま立証されてしまい、自家発電みたくなってるのだ。
対談の2回目では、SNS等で「まちがえた」と言えない、ないし意見の違いを認められない人の例として、舟津さんが最近起きた炎上の例を出す。別にそれは主題じゃなくて、あくまで “たとえば” という話の枕にすぎない。

「あぁ、ありましたねw」で流して本題に進むのが、(ぼくの考える)妥当な読み方なのだが、いまのネットはそうならないらしい。おそらく5chでの言及を基にしたAI生成で、こんな地獄のような動画が作られてしまう。
なにが起きてるのかというと、どうもいまのネットには「一切反論されずに、問答無用でバカ扱いして、殴れる相手」を求めてる人がいっぱいいて、ネタが投下されるのを始終、手ぐすね引いて待ってるらしいのである。
なので、対談の本筋と関係ない文字どおりの “ネタ” であっても、「みんなでバカにできるイタいやつキターーーッ!」みたくなって、そこにだけ食いついちゃう現象が起きるようなのだ。まぁ、知ってたけど(笑)。

なんで知ってたかというと、上の記事で書いたとおり、ぼくが歴史と炎上のプロだからだ(苦笑)。とりわけ2020年のコロナ禍以来の、自分は専門家だと自称する人ほど、実は単なる “ネットリンチの煽り屋” な事例の多さに関心を持ってきた。
彼らがやっているのは、学問のダンピングであり、バーゲンセールである。「センモンカの私があいつを “非科学的” と認定してあげますよ、だから殴り放題ですよ、はぁ私の学問って社会に貢献して有益!」というわけね。

そんなセンモンカに「集団でバカにしていい相手」を放ってもらい、飛びつくハイエナかピラニアみたいなフォロワーの視点でいうと、それは粗悪な “知のストロングゼロ” をガブ飲みして、よそ様に絡んでるようなものだ。
拙著ではまさに「知の “ストロングゼロ” だった、専門禍を終えるために」という節を設け、社会のお墨つきを得て暴力を振るおうとする欲求のいびつさを、平成末に流行し定着した “合法ドラッグ” になぞらえて論じている。

逸脱的な――大っぴらには自慢しにくい快楽を、味わいたい。しかしそのことで、周囲から避けられてしまうのはイヤだ。言い換えれば、属するコミュニティに敵対するのではなく、むしろ「奉仕する」体裁で、自分の中にある健全でない欲求を発散したい。
昔なら、祭礼の日はムラを挙げての無礼講になり、マナー違反が許されるといった形をとったのだろう。しかしそんな日本人のエートス(気風)は、平成後半の情報環境や消費資本主義と結びつくことで、土や汗のにおいもせず、一見すると文字どおりに「クリーン」な逸脱の様式を生み出した。
令和に訪れていまも止まらない、専門家を「推し」のタレントのように神輿に乗せ、主張に沿わない相手をネットで告発し、SNS上の集団で罵声を浴びせる風潮は、まさにそうしたインフラの上で起きている。
拙著、60-1頁
(強調を追加)
そんな現状について、大澤聡さんが『毎日新聞』の文芸時評で、拙著の別の比喩を引きつつ、広く問題を提起してくれた。とてもありがたい。

Xで小川〔公代〕が「暴力」だと反論し、識者風のユーザーたちが群がって炎上化した、最近おきまりのその流れに問題はある。……蓮實〔重彦〕の本文を雑誌で読むことすらほとんどないまま、小川側か蓮實側かのシンプルな二択で立場が表明されてゆく。
(中 略)
たとえば、與那覇潤『なぜ「まちがえた」と言えないのか』(東洋経済新報社)にならって、学問や批評が「SNSに溶けた」と表現してみてもいい。もしくは「SNS全体主義」と。Xもまたクリーチャーのごとき全体として人類の手に負えなくなって久しい。
『毎日新聞』2026.10.29夕刊
強調したのはぼくだけど、「識者風」の風の1文字が、問題の本質を滲ませてなんともいい。先日書いたように、他の分野の “識者” にすぎない人が、ファクトも調べずSNSのオトモダチ関係だけで、しゃしゃり出る例もある。
いかに優れた知能の持ち主でも、四六時中切れ目なしにストロングゼロを飲んでれば、ふるまいが支離滅裂になり、あたかも脳がアルコールに溶けたのと同じになるだろう。そんな状態を “推し” てきたのが、コロナ禍以降のSNSだったのだ。

どうすればいいのか。解決策はシンプルである。
しらふに戻ればいいだけだ。SNSが生まれたのは2000年代の後半で、日本で普及したのは10年代にすぎない。それ以前には悪酔いせず、もし「まちがえた」ら素直にそう言える、学者と読者の関係がふつうになり立っていた。
舟津昌平さんとの3本目の対談(最終回)では、拙著に登場する具体例も添えて、あるべき「専門家」の姿を提言しなおしている。

與那覇 TVでコメントしたり、ネットでケンカするだけなら、色んな職業の人がいる。その中で「学者」がなぜ一目置かれてきたかといえば、違う意見の人とも怒鳴りあわず、自分の信念を叫ぶだけでなくそう考える根拠を添えて、落ち着いて議論する姿を見せてきたからでしょう。
ところがコロナ禍以降に出てきた「専門家」たちは、その遺産を食い潰してしまった。……『なぜ「まちがえた」と言えないのか』でも採り上げたとおり、平成までは実例が多くありました。
経済学者の中谷巌さんや浜田宏一さんは、政府に提言した政策の誤りをそれぞれ認め、国際政治学者の田中明彦さんも、イラク戦争でアメリカを信じたことへの反省を述べている。それが令和にできないというのは、さすがにおかしな話です。
東洋経済オンライン、2026.10.30
(段落を改変)
前回も紹介したとおり、そうした本来の学問の姿を知っているホンモノは、コロナの最中も “闇酒場” でカクテルの勉強をしながら過ごした。まぁ公園ではストゼロにもお世話になったけど(笑)、それは今回の本題じゃない。
同じ時期に度数だけが高く、ハイになってリンチの高揚感を味わえるドラッグをSNSでばら撒いてきたニセモノの学者は、いわばトー横の市販薬売りみたいなものだ。そうした “合法的な犯罪者” の責任がいま、問われている。

あなたが暮らしたいのは、どちらのインターネットだろう。言論の自由が守られ、いつでも異なる意見を発信できる、エスプリに溢れた環境か。それとも「早く犠牲者をよこせ!」と奇声を上げて、中毒者の群れが徘徊する知性のスラムか?
この記事を読んだ後、あなたはどちらのグラスを手にとるだろう。つまり、誰の著作を読み、アカウントをフォローするのだろう。
カクテルか、ストゼロか?
さすがにこの問いだけは、「正しい答え」はひとつしかない。ぜひそちらを選び、ほんの10年ほど前にはあたりまえだった、「正しい世の中」を取り戻す手伝いをしてくれる方が、ひとりでも増えることを願っている。
参考記事:1つめが対談の1本目!


(ヘッダーは「アヘン窟」のWikipediaより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年11月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください








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