専門家を名乗る学者が起こす「専門禍」:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える④

與那覇 潤

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前回(連載その③)では歴史学者の嶋理人氏に対し、彼が11月8日に発表した記事を削除する猶予を与えたつもりであった。本人がカッとなって不適切な記事を書いたと反省して、削除するならそれでよいし、ただし居直ってその後も中傷記事の掲載を続けるのであれば、「このアゴラの連載にて批判させていただきます」(原文ママ)と通告したのである。

ところが嶋氏の応答を待っている間に、作家・ゲームデザイナーの架神恭介氏が、早くも嶋氏の記事の問題点を「実証的」に明らかにしてしまった(11月11日付の同氏ブログ。なお、私は架神氏とは、一切の面識・交流がない)。そのため、予想外に早くも再度筆をとらざるを得なくなった次第である。

架神氏が行ったのは、非常にシンプルな作業だ。嶋氏が当該の11月8日の記事のなかで、このリンク先の資料を見れば、「「主婦は甘えてやがる」という偏見を呉座さんが持っているといわざるを得ない」(嶋氏の原文ママ)のだとして提示していたリンクを、実際に踏んでみた。ところがその先には、そんな資料はなかった、というだけのことである。

「まず単純な問題として、「主婦」についての呉座氏の発言がリンク先に見つからない。リツイートをしている=呉座氏の意見である、という認識だろうか? それならそれで、まあいいのだが……。」(架神氏ブログより。強調は引用者)

その後、架神氏は嶋氏のリンク先にあった呉座氏によるリツイート(=呉座氏以外の発言)のうち3点を検討し、それらが主婦差別とはいえないことを指摘している。嶋氏のリンク先にあたっての検証は、むろん同氏に警告する際に私も行っていたので、本稿では架神氏の記事とは重複しない「呉座氏によるリツイート」の例を示しておこう。

はたして読者はこれを読んで、「こんなツイートをRTするとは、やはり呉座氏は主婦を見下し、女性を差別していた!」と思われるだろうか?

どう読んでも「主婦は甘えてやがる」ではなく、むしろ「専業主婦に家事を全部やってもらっているのに、女性の同僚よりも自分は優秀だと思い込む男性は勘違いをしている」という、フェミニズム的な観点に沿った主張であろう。呉座氏のリツイートの動機が賛同/批判のどちらにあったのかは、嶋氏が提示するリンク先だけでは不明だが、少なくとも呉座氏がそうしたフェミニズムの問題提起を意識した上で、男女の働き方について考えていたことは事実だといえる。

さて、当然のことだが、こうした検証に歴史学の専門知識はまったく必要ない。単に、著者(この場合は嶋氏)が「リンク先を読め。そこに証拠がある!」として提示するリンクがあったら、実際に踏んで、自分の目(この場合は架神氏ないし與那覇の目)で確かめた上で、著者への賛否を決める。それだけのことである。

驚かされたのは、嶋氏の記事と私の警告文(連載その③)とを読み比べて、「嶋氏の批判は具体的だが、與那覇には具体論がない。よって正しいのは嶋氏の側だ」と判定するアカウントが相当数見られたことだ。そもそも私の文章は、具体的な批判に入る前に(知人としてのよしみで)嶋氏に猶予を与えたものなのだから、具体論がないのは当たり前なのだが、いちばんの問題はそこにはない。

嶋氏のように「自分はプロの歴史学者であり、したがって実証的だ」(大意)といったポーズで情報を発信すれば、実際には多くの読者がその論拠を検証することすらなく、「専門家が言うならそうなのだろう」と信じてしまう。そうした状況に、今日の日本のネット空間があることこそが、最大の問題であろう(なお参考までに、2021年3月までの嶋氏による執筆学術論文の一覧と、多事および病気のため2011年で更新が停止されている私の一覧を掲げておく)。

歴史学のような不要不急の学問であれば、専門家の看板が暴走しても(元)同業者を中傷するくらいで済むが、これが社会的な影響力の大きい学問だと大変である。たとえば2020年春からの新型コロナウィルスの流行以前に、西浦博氏や尾身茂氏の名を知っていた日本人は多くないだろう。まして両氏が執筆した論文の量や、質を吟味した体験を持つ人は、多くて十数人に留まるのではないか。

ところが彼らが「専門家」を名乗ってメディアに登場するや、「西浦先生の接触8割削減に従わないのは非科学的」「尾身先生を批判するのは反知性主義」とする空気がSNSで醸成され、異論を唱えるアカウントにはネットリンチ的な攻撃が殺到する。こうした現象を、私はコロナ対策にともなう間接的な被害(倒産・廃業や、うつ病・自殺の増加など)を含めて「新型コロナ禍」と呼ぶのにちなんで、専門家ならぬ「専門禍」と呼んでいる。

専門禍はなぜ、起きてしまうのか。問題の規模はまるで異なるが、呉座勇一氏のネット炎上と、新型コロナウィルスの流行をめぐる社会パニックを対照すると、いくつかの手がかりを得られるように思う。

まず①「女性差別をなくしたい」「疫病の流行を抑えたい」といった、それ自体としては反対する人がほぼいない「正義」への欲求がある。しかし目標がなかなか達成されないと、その理由を②「差別思想を持つ人」「ウィルスを拡散する人」などに求め、「悪しき」他者への攻撃によって発散しようとするマグマが生まれる。そこに③当該の問題の「専門家」を名乗る有識者が現れ、その言動が「みなさんの攻撃欲求は合理的であり正しい」とするお墨つきとして機能することで、専門禍は発生する。

嶋氏が専攻する歴史学のように、「起こせる専門禍の規模が、極小に留まることがはじめから決まっている」タイプの学問もあるにはあるが、「けっして専門禍を起こさない」と確言できる研究分野や方法論は、ない。

たとえばフェミニズムを一個の専門分野とみなすのか、むしろ多様な分野を横断して適用可能な「スタンス」として位置づけるのかは、フェミニストのあいだでも意見が分かれるだろうが、いずれにせよフェミニズムもまた――歴史学や理論疫学と同じように――専門禍を起こすときは起こすと、私は考える。本連載(その②)で扱った「オープンレターという名のネットリンチ」は、遺憾ながらその典型と呼ばざるを得ないし、類似の現象がいまなお発生していることは、拙稿の周辺で起こる各種の炎上からもあきらかであろう。

巻き込まれた方への申し訳なさもあるため、本連載の続きでは、そうした事例についても逐次検証し、有識者が「言い逃げ」や「専門禍」を生み出してしまう背景を考察してゆきたい。

なお前回、嶋氏に鳴らした警鐘はいまも生きている。期限を区切って脅しのように催促する気はないが、彼が(架神氏および私に批判された)中傷記事を削除しないのであれば、①嶋氏の記事のうち今回取り上げなかった部分についての「具体的」な批判を行い、②そうした「専門禍を起こす専門家」を養成してしまうメカニズムを歴史学の事例に即して明らかにし、また③一部のフェミニストがいかにして「オープンレター=ネットリンチ」という専門禍を引き起こしたかについての資料を公開する。

私は、人間とは間違える動物であり、むしろその間違いを自覚して修正できるところにこそ、動物にはない人間の美点があると考える。だから嶋氏に対してリンチ的に、公衆の面前での謝罪を求めることはしない。上記①~③を回避するために必要なのは、嶋氏が誤った記事を削除することのみである。

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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