選挙の選択(その1)― 政治家も問題だが、国民やマスコミの質も低すぎないか?

北村 隆司

「前門の虎、後門の狼」の危機の最中に迎える総選挙が、週刊誌の吊下げ広告みたいなスローガンで争われる現実は情けない。

これが日本の民主主義だとすれば「役に立たない民主主義は、有権者と5分話せばはっきりする」と言ったチャーチルの言葉そのままである。

たった3年前の総選挙で争った「地方分権、年金改革、医療制度改革、少子化対策、景気・雇用対策」などの長期重要課題が何一つ解決していない侭に、今度の選挙では「脱原発」「反TPP」「反消費税増税」などのスローガンが争点の表舞台に登場した。


政治家の質を批判するのは自由だが、長期課題が日替わりメニューの様に変る現状に異存を唱えないマスコミや国民が、政治家の質を批判するとすれば、「目糞、鼻糞を笑う」の類である。

だからと言って、「脱原発」「TPP」「消費税」などを軽視する心算はない。

問題にしたいのは、長期的な問題と突発的な問題の区別もせず、先ず結論ありき式にバーゲンのチラシの様なスローガンで国民に結論を売りつける政治と、それを面白可笑しく報道するマスコミやそれを受け容れる国民の貧困な質である。

短答式回答に慣らされ、分析や論文を不得手にしている日本国民は、理性的な分析で結論を出すより、「好き嫌い」で物事を判断する傾向が強くなっている。

今回の「原発」「TPP」「消費税増税」を巡る争点も、討論すら成り立たないと思える程に、賛否両論の溝は深く、感情的な「狂信者」の闘いの様相を秘めている。

因みに、「狂信者は、己の考えを変える事も、課題を変えることも出来ない」と言ったのもチャーチルであった。

国際的な地位の低下と孤立化が激しい日本で、問答無用の結論押し売り社会が広がるとしたら、主張も風習も異なる外国社会を説得して生きて行かなければならない日本の将来は暗い。

「脱原発」や「反TPP」「反消費税増税」も、重要な命題ではあるが、最初から結論として掲げるべき物ではない。事もあろうに、これを党名に採用するに至っては、始めから野党宣言をした様な物だ。

民主主義の特徴が、結論の是非より結論を導く工程にある以上、民社社会での結論の押し売りはご法度で、夫々の命題について関係者の利害や国全体から見たマイナス面も取り上げて、冷静に論議をした上で、結論を出すのが鉄則である。

「結論ありき」の主張に合理性がない事は、「国民との約束を守らなかった」と言う大義名分で民主党を離れた小沢一郎氏の主張に良く表れている。

小沢氏は、野党時代の2008年に国会を空転させてまで暫定税率廃止を主張し、2009年選挙では、暫定税率廃止を民主党のマニフェストの工程表に大きく掲げて政権交代を実現させた。

処が、政権誕生間もない2009年12月に、自ら官邸に乗り込み「暫定税率」を維持させたのも小沢氏であった。

当時、「詐欺に等しい」と強く批判された小沢氏だが、菅政権が誕生すると、手を返す様にマニフェスト遵守を訴え、野田政権の下で「消費税増税」が国会を通ると、「国民との約束を守らない民主党には居られない」と言う捨てゼリフを残して離党してしまった。この行動に、何らの合理性も無い事は自明である。

誰から見ても理不尽なこの行動は、政策を政権奪取の道具としか考えない小沢氏には、理に適った行動なのであろう。

小沢氏の「増税前にやるべき事がある」と言う主張には、それなりの説得力があり、消費税増税は自分の方針と異なるとして離党し、「やるべき事」の内容と実現までの工程を具体的に説明しておれば、小沢氏の政治家としての矜持を保てたと思うと、小沢氏のためにも残念な言動であった。

計算高い小沢氏の自分勝手な行動も、日本国民の政治的未成熟さを良く知る計算高い小沢氏には極めて合理的な行動に見えるのかも知れない。

政策より政治家個人の好き嫌いで物事を決める癖のある日本では、小沢氏の不合理な言動が、熱狂的なファンを生む事も否定出来ない。

小沢氏の政局ベースの動きは、軽薄で感情的な読者を必要とするマスコミの利害とも一致し、小沢氏を活かさぬよう、殺さぬように扱う事で共存しているのが実態であろう。

2009年総選挙を、「何でもやります」型選挙に仕立て上げたと思うと、今回の選挙を「いやだ、いやだ」選挙に誘導したのも、マスコミの儲け主義がまかり通った証左である。

政策を国民にわかり易く説明できる事は大切だが、わかり易いスローガンの横行は危険である。

民主主義発祥の地、ギリシャの哲学者プラトンは「国民が政治に参加しない事は、己より質の低い政治家の配下になる事を認めるに等しい」と言う言葉を残したそうだが、果たして日本にも当てはまる言葉なのだろうか? 総選挙の結果が見物である。

2012年11月28日
北村 隆司