国の死に方 (新潮新書)
著者:片山 杜秀
販売元:新潮社
(2012-12-15)
★★★☆☆
日本の政治がいつまでも混乱するのは、日本人の意思決定システムが近代デモクラシーの想定するものと根本的に違うためだと思う。いま書いている拙著『「空気」の構造』は、その原因を分析することがテーマだが、本書も同じ問題を扱って似たような答を出している。その原因はひとことでいうと、天皇制である。
天皇なんて何も権力はないじゃないか、というのは大きな間違いである。本書も指摘するように、明治天皇にも実質的な決定権はなかった。明治政府を動かしたのは元老を中心とする長州閥であり、天皇はその醜い実態を隠す象徴にすぎなかったのだ。天皇制は、このように権威と権力の分業によって世界にまったく類をみない長い王朝を続けてきた。
それを成り立たせているのが、丸山眞男の指摘したまつりごとの構造である。プリンシパルがエージェントに命令するのではなく、後者が前者をまつり上げて利用する構造が日本の政治の求心力を弱め、国家統一の障害になっている。伊藤博文など明治の元勲は、この弱点を克服して「一君万民」の構造を実現するために、各省を分断してそれを統括する首相を憲法から消し、軍を天皇が統帥する奇妙な憲法をつくった。
つまり丸山のいうタコツボ構造は、明治国家によって意図的につくられたのだ、というのが著者の仮説である。伝統的な天皇制ではタコツボ間の利害調整を行なう関白や将軍に権力が集中するが、明治憲法はそういう存在を否定したので、元老による非公式のコーディネーションがきかなくなるとタコツボ間の調整機能が失われ、軍部が暴走しても内閣に止められなくなった。
このようにタコツボが分断され、それを統括する中枢機能の弱い構造が、今の日本にも続いている。TPPに参加するという意思決定は首相がやるといえばよく、国会の承認も閣議決定も必要ないのに、3年以上かかって玉虫色の共同声明を出すのがやっとという政治的意思決定の遅さは、「古層」に埋め込まれた日本人の思考様式に根ざしているのだ。
なぜ日本人だけが、こういう奇妙な意思決定システムを1000年以上も続けてきたのだろうか。その原因を著者は、異例に長い平和に求める。日常的に戦争している国では、ボトムアップでは戦争に勝てない(それは第二次大戦で証明された)。しかし日本は平和が長かったので、日常的な仕事を処理する分権的な官僚システムが発達した。
この意味で、天皇制はインサイダーの利害調整で政治的決定を行なうデモクラシーの一種なのだ。丸山は、これを日本型デモクラシーと呼んだ。本書の結論もほぼ同じだが、論証はアドホックで弱く、丸山の詳細な研究を参照していない。私の次の本では、この問題をもっと包括的に論じる予定である。