最近色々あっていくつかの大学のゼミをアシスタント的にお手伝いすることになりました。(ボランティアです。)
一応それぞれ日本でも難関とされる大学なのですが、基本的にはみな同じ特性を持っていて「現場と触れずして学問のみをする」というものです。前にも教育については書いたのですが(http://usami-noriya.com/?p=1745)、自分が教育を受けた時代と同じ問題が全く解決されず残っているところに愕然とするとともに、日本の教育の問題の根深さを感じるわけです。
とはいえ私なぞも偉そうなことを言える身分ではなくて、我ながらたいそうな学歴、経歴を持っているわけですが、組織や肩書きを取って一人の「うさみのりや」に成ってしまうと、今のところま~なんとか食っていけるかな程度の収入しか稼げていないわけです。そしてそれが現在の自分の市場価値というわけでそれを受け入れるしか無い。市場は残酷。もちろん同級生の中には立派にITベンチャーを立ち上げたり、そこに参画したりしてガツガツ稼いでいる奴もいるわけですが、ごくごく少数なわけで、やはり日本の教育は大企業や官庁に取ってある意味都合のいい「基本性能は高いものの自力で事態を打開できず、組織の奴隷と成ってくれる人間」を育てるために機能しているような気がいたします。それでも昔だったら最後まで面倒見てくれたからよかったでしょうが、彼らの世代では(我々もですが)どこかのタイミングで雇用が劇的に流動化すると思われるので、なんというか崩れ行く国家像を信奉させるという意味では北朝鮮と同じものを感じてしまいます。
こういった社会の大勢とは裏腹に最近若者の終身雇用志向が高まっているそうで(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0616&f=business_0616_209.shtml)この機会になぜか聞いてみたのですが、それも厳しい就職活動を経て「終身雇用が崩れつつある」とか「少子高齢化で日本の未来は暗い」とかいった実感を得ての反作用のようで「なんとか組織にしがみついて、日本の暗い未来の中でオレは生き延びる」ということを皆さん語ってくれます。そして2言目には「会社がヤバくなってもいつでもグローバル企業に逃げられるように英語を学ぶ」的な発言が出るのですが、一生懸命国が教育にお金をかけて育て上げた結論が「沈み行く日本から自分だけ救われるor逃げ出す」ということに成っているのがなんとも切ないですね、切なさを消せやしないですね、はい。
企業も文化活動も国境を越えてシームレスにつながっていているのは事実だし、私個人としてはやりたいことをやった結果としてグローバルマッチョに成るのは自然なことだと思うんですが、最近こうした「逃げ込み型グローバルマッチョ志向の学生・社会人」が増えてきているのは、とても残念に思っております。その背景には何となくさんざんグローバル、グローバル不安を煽って「財界の兄貴」などと気取っているあの御方の顔が浮かんでしまうのですよね。本人がなんと言おうとも多くの学生が彼のメッセージをこのように受け止めていることを彼は自覚するベキだと思うのです。この辺が私がグローバルマッチョ思想が嫌いな所以です。。。。本来は育ててもらった社会の問題を解決するための人間を育てるのが教育思うのですが。。。
さて話は戻りますが、自分としてはせっかくこうして学生と関われるのですから、何らかの形でネットにアウトプットを出してマネタイズする、ということをアシスタントとして仕掛けられないかと思っています。ただ、そもそも「勉強と稼ぐことは別物でしょ」というような雰囲気が学生側に満載で、打っても帰ってくるものがあるか、大変不安に思っているところです。所詮勉学というのは大半の学生に取って自分が良き社畜であることを証明するシンボルにすぎないのですね。良識ある大学教授の方々もその辺に強い問題意識を持っているようで、それでも頑張って打ち続けてみよう、的なスタンスを維持できる精神力に感服いたしております。
そんなわけで少し前は大学の教育プログラムを見直せば市場との距離の問題って解決できるのかな、と何となく思っていたのですが、最近現場に入って思うのが、やっぱり中学や高校段階で人間の意識は固まってしまうということです。学生時代、自分でお金稼ぐことにチャレンしたこと無いから、リスクを極端に恐れるんですよね。そして自分自身もその気持ちよく分かる。そんなわけで教育改革の基本ってやっぱり、商売というものを少しずつ小さい頃から味あわせるということにあるのかな~、と思った次第です。
ではでは今回はこの辺で。
編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年10月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。