「ちょっと、出口さん、二段目はうちのファックスです!何度も言ってるじゃないですか、勝手に使わないでくださいって!」
「あ・・・すみません」
女性に怒られてしょんぼりする出口。僕は高尾と目をあわせて、クスクス笑った。声の主は、わずか7席のオフィススペースに「同居」する他社の女性スタッフ。メガネの奥に覗く神経質な細い目が、ますます厳しく光る。居候生活も、甘くはないのだ。
2006年10月6日。会社設立の目途が立ってから、まず初めにやったことが、金融庁に認可取得の相談をしに行くことだった。出口は女性が席を外すタイミングを待って、ドラフトした一枚のメモをこっそりファックスしていた。
人脈は全部捨てた
出口は、日本生命時代に大蔵省との窓口を行う「MOF担」を10年近く務め、幅広い人的ネットワークを構築していた。MOF担を離れ、ロンドンに赴任する際の送別会には、当時は民間保険会社の一介の課長に過ぎなかったにもかかわらず、霞が関からは次官や審議官級の人材が何人も駆けつけたという。
しかし、今回、新たに起業をするにあたって、一つ決めていたという。それは、過去の人脈には一切頼らない、ということである。本当の意味でまっさらな新しい会社を作るためには、過去に積み上げてきたものを一回捨て、ゼロから始めるべきだという信念を持っていたのである。
代わりにやったことは、金融庁のウェブサイトに発表された様々な文書を、隅々まで読み込むことである。5年にも渡る膨大な文書の行間を読むことで、「金融庁は競争を望んでいる。いい会社を作れば、必ず認可は下りる」との確信に至ったという。その行間を読み解けたのも、かつて自分も民間の立場から保険行政の文書作成に携わっていたからなのだろう。
今回は正面からドアをノックし、幸いにも、監督局保険課の保井俊之課長(2006年10月当時)とアポを取ることができた。
普通の企業社会では「課長」というと部長の下の管理職に過ぎないが、霞が関では課長は所管する分野について絶大なる権限を持つポストである。
金融庁の監督局に属する銀行課長や証券課長、保険課長であれば、業界を監督するための政策を取り仕切るほか、各社の頭取・社長クラスを相手に、許認可や行政処分に関わる実質的な意思決定を行う。我々が生命保険会社としての許認可をもらえるかどうかについても、保険課長の考えが重要な役割を果たすことは間違いがなかった。
はじまリはいつも雨
この日も、そしてこれから記念に残る日はいつもそうなるのだが、雨が激しく降っていた。溜池のオフィスから金融庁までは徒歩圏内だったが、この日は風も強かったので、タクシーに乗ることにした。それから何度となくそうしたように、ビルの下のマクドナルドから信号をカレー屋の方に渡って、タクシーに乗り込む。すぐの溜池交差点を左折し、二つ目の信号でUターン。金融庁の前につけるのだった。
当時の合同庁舎は、まだ建物の外の、守衛室のようなところで受付をしていた。警備会社の女性が、我々が記入した面会表を元に、担当者へ電話を繋いでくれる。我々はいつも緊張をして、10分から20分早く到着してしまうのだが、「時間になったら上がってきてください」と言われ、下の階で待つのが常となっていた。
「昔はこんなんじゃなくて、出入りが自由だったんだよ。MOF担の仕事は、朝から一日中、大蔵省の建物の中を上から下までぶらぶらして、いろんな人と話をすることだった。」待ちながら、昔のしきたりを出口が教えてくれる。
時間になったのでエレベーターで保険課がある9階にあがると、自席の前のテーブルで、保井課長が迎えてくれた。「出口さん、お久しぶりです」。出口は、恐縮していた。昔、インドで挨拶をしたことがあった、とのことだ。僕らはそのまま、大部屋の課長席にある前のテーブルに着いた。
一枚のメモ
僕らが持参した1ページのメモには、次のように書かれていた:
「下記の要領で、生命保険会社を設立したいと考えております。どうかよろしくご指導くださいますよう、お願い申し上げます。
記
○ 新会社の商号:ネット生命保険株式会社(仮称)
○ 資本金:50億円以上
○ スケジュール:06年10月、企画会社設立(事業計画の作成、出資者の募集等)。07年秋、営業開始
○ 事業方法:インターネットを用いて、シンプルな生命保険商品をダイレクトに提供することによって、付加保険料を低くし、顧客に、低廉な保険料で必要十分な保障を提供しようと、考えております。
以上」
当時は金融庁がどういうところか、まったく知らなかったので、このペーパーについて何とも思わなかった。しかし、今となっては、出口の大胆さに驚く。
まず、資金調達は、この時点では確定していなかった。あすかDBJとマネックスを中心とした株主構成で行くことは予定していたが、それも今後の許認可の折衝手続きがスムーズに進むことが前提であり、この時点で確約があったわけではない。また、認可を希望するスケジュールについても、極めてアグレッシブな希望がなされている。ちょうど1年後の07年秋には免許交付、というのは、おそらく前例のないものである。
保険会社の子会社であれば、十分に資金の目処が立ち、かつ綿密なスケジュールを作った上で、このようなペーパーを持っていくのだろう。しかし、「独立系」である我々には、そのような方法は取れない。出口のやり方は違った。先に、目標を定める。あとから、それに合わせるよう行動する。その結果ありきの進め方は事業に推進力をもたらすものであり、まさにアントレプレナーらしい行動だった。
今日から「保険業者」
保井課長は一通り出口の説明を聞いてから、次のような趣旨のことを述べられた。
・ 金融庁では消費者からもっともクレームが多いのが保険業界です。金融庁としも色々な取り組みをしているが、保険会社各社には「入口」での顧客への説明不足を十分に行うことと、「出口」の支払査定はきちんとやってほしい
・ 新設会社の認可審査はかなり時間がかかるから、じっくり付き合って頂きたい。今後のステップについては、担当の係長から連絡をさせる
30分程度の短いミーティングの最後に、出口は自分が書いた「生命保険入門」(岩波書店)を、挨拶代わりに渡そうとした。すると、保井課長は再び笑顔で財布を取り出した。
「今日から出口さんは認可申請手続に入りましたので、私どもからすると『保険業者』になります。せっかくですが、ご著書は頂くわけにはいきません。本の代金はお支払いします。おいくらですか」
出口ははっとした顔で、返って気を使わせてしまって申し訳ありません、と謝った。
これが思い出に残る、初めての金融庁だった。これから何10回と通うこととなるのだが、免許をもらうための折衝がどのようなものになるのかは、自分には想像すらつかなかった。
「74年ぶりの独立系生保」として認可をもらうための折衝が、この日に正式に始まったわけである。
(続く)
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