日本でも特定秘密保護法の制定が決まり、「秘密と「権力」の関係について関心が高まった事は喜ばしい。
1月18日はこの問題の代名詞みたいなドレフュス事件で、ドレフュスの冤罪を証明するために自らを賭して権力と闘ったピカールの死後100年の命日に当たる。
ドレフュス事件の起きた時代背景については、ウイキぺデイアの「ドレフュス事件」に譲るとして、冤罪事件を起こした当時のフランスと現在の世界を比べて、秘密保護と民主主義の関係に光を当てる事は意義深い事だと思う。
フランスは憲法の理念が支配した憲政国家と言う意味では、英米に比べると可也遅れた発展途上国で、今も昔も官僚支配の閉鎖的国家だと考えると、日本にとっては特に重要な意味を持つのではないだろうか?
ドレフュス事件発生当時のフランスには、反ユダヤ系マスコミが跋扈し、祖国を裏切る売国奴のユダヤ人を庇っていると非難された軍部が、ドレフュスを非公開の軍法会議において証拠不十分のまま裁いた結果が、冤罪事件につながった要因であった。
現代の日本でも嫌韓、反中感情を煽り秘密保護法の必要性を強調するマスコミが存在する事も事実なら、その逆に、自由と民主を守る対価には目もくれず「秘密保護法反対」一辺倒のマスコミも存在する事も事実で、日本版ドレフュス事件が起こる可能性は充分考えられる。
そのような時に、Robert Harrisがピカールの逝去100周忌を記念してニューヨークタイムスのオピニオン欄に書いた「The Whistle-Blower Who Freed Dreyfusと言う記事は、我々日本人にも大変参考になると思い、私の拙い翻訳で紹介してみたい。
1月18日は、ジョルジュ・ピカールの逝去100周忌にあたる。
大抵の人はジョルジュ・ピカールと言っても「ジョルジュ誰?」と首をかしげるに違いないが、ピカールの祖国フランスでもこの命日の記念行事は殆どないくらいだから無理もない。
とは言え、ヴィクトリア女王やセオドア・ルーズベルトの現役時代のピカールは、毀誉褒貶で世界を二分するほど有名な内部告発者であった。
21世紀の内部告発者であるブラッドリー・マニングやエドワード・スノードンとは異なり、ピカールは不満分子でもなければ組織内の下級職員でもなかった。
寧ろその反対に1894年当時の彼は、優れた頭脳に恵まれ、将来を期待される陸軍将校の出世街道であった陸軍大学校の教授も経験したエリートの一人であった。
その陸軍大学校時代の教え子に、ユダヤ系の砲兵大尉のアルフレッド・ドレフュスがいたのである。
多くの将校仲間と同様、ユダヤ人にやや偏見を持っていたピカールは、参謀本部でただ一人のユダヤ人であったドレフュスが、ドイツに機密情報を漏洩していた疑いがあると聞かされても特に不思議には思わず、捜査官の求めに応じてドレフュスの筆跡を提供することにも疑問を抱かなかった。
筆跡鑑定の結果ドレフュスの容疑が固まり、そんな事とは露知らない昔の弟子を、目立たないように手早く拘束して刑務所に送り込んだのもピカールであった。
12月に入って行われたドレフュスの軍事裁判には、ピカールも正式オブザーバーとして出廷した。国家機密に拘るこの裁判は秘密法廷とされ、ドレフュスの有罪をを証明する明白な機密情報があると告げられたピカールは、この証拠書類を秘密裡に裁判官に提出すると言う決定にも同意していた。
1895年1月5日に、この証拠書類が決定打となって終身刑に処せられたドレフュスは『ユダヤ人に死を!』と叫ぶ2万人の群集の目の前で、軍刀をへし折られ、階級章を軍服から引き剥がされた。
この様子を見ていたピカールは、同僚の将校に向かって『彼がユダヤ人だと言う事を忘れちゃだめだよ。彼は今、軍刀の金製の紐の目方とそれがいくら位で売れるかを考えているに違いない。』と平然と言ってのけた。
3月になると、ドレフュスは南米の仏領ギアナ沖のディアブル島にに送られ、刑務官との会話を含む全ての人間との接触を禁じられる事となる。
一方ピカールは、その6ヵ月後に40歳と言うフランス軍最若年の若さで大佐に昇進し、ドレフュスの罪状証拠等を集める統計課と言うこじんまりした情報部門の責任者に任じられた。
この課のエース的な秘密捜査官に、ドイツ大使館で掃除婦を務めるマリー・バスティアンがいた。ドイツ大使館付き武官であったマクシミリアン・フォン・シュワーツコッペン大佐の屑篭を手に入れ、その屑篭からドレフュスの筆跡だと断定された詳細メモを見つけた事が、ドレフュスの有罪の決め手となった功績を挙げたのも彼女である。
ピカールが新任務について9ヶ月が経った頃、バステイアンはシュワーツコッペン大佐が40回もちぎった、俗に『プチ・ブロー』と呼ばれる空圧式の電報紙を持ち込んで来た。早速これを繋ぎ合わせてみると、シュワーツコッペン大佐がフランス軍の現役将校であるマリー・シャルル・フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐から秘密情報を得ている事が判明した。
これを知ったピカールは、即座にエステルアジ少佐を監視下に置いて観察すると、酒好き、博打好きに、それに加えモンマルトルの娼婦とねんごろになり借金で首が廻らないなど、典型的なスパイの横顔を備えている事が分かった。
問題はそれに留まらず、参謀本部員になるための願書を提出するなど、職務面でも無視できない活発な動きを示していた事も判ってきた。
これが気になったピカールは、エステルアジの手紙とドレフュスの有罪の決め手となった詳細メモの筆跡を比べて見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。ピカールはこの事について『この二つの筆跡は、似ているどころか全く同じものであった。』と後で述懐している。
ピカールはその翌日、筆跡判定の権威者で彼の鑑定結果がドレフュスの有罪を決める助けとなったアルフォンス・ベルティロンに筆跡鑑定を依頼した。
鑑定を終えたベルティロンは、二つの筆跡が完全に一致すると認めながら『これはユダヤ人が誰かにドレフュスの書き方を訓練した結果に過ぎない』として、前回のドレフュス筆跡の鑑定を覆す必要は全くないと主張したという。
次にピカールは、ドレフュス事件の裁判の判事に送られた秘密情報の再検収を試みた結果こんな証言をしている。
『私は、この任務について初めてこの事件の機密証拠を手に取り調べてみて、仰天した事を告白しなければならない。私が期待していたのは動かす事の出来ない有罪の証拠であったが、事実はその逆で、証拠らしいものは全く見つからず、薄っぺらな証拠らしきものがあっても、それはでっち上げに過ぎなかった。』
ピカールはこの事実をフランス軍参謀長のラウル・ボアデッフル将軍と情報部長のシャルル・ゴーンス将軍に報告したが、二人の反応はドレフュスの再審に結びつくような活動は避けるようにと言う驚くべきもので『たった一人のユダヤ人が、悪魔の島(ディアブル島)に幽閉されたからと言って、お前にどんな関係があるのか?』と言うゴーンス将軍には『そうは言われましてもドレフュスは無実ですから』と答えるしかなかった。
彼はそれでも屈せずに、上司のイライラを無視して調査を続けたが、2ヵ月後にはその仕返しとして情報部の任務を解かれ、1897年の春には生まれ故郷のチュニジア派遣部隊に転勤を命ぜられた上、生還の可能性も少ない南部サハラ作戦への従軍を命じられる事となった。
25年に亘る軍人生活を続けたピカールは、事ここに至って軍の外部に訴える事に腹を固め、オーグスト・ケストナー上院副議長にエステルアジの裏切り行為の証拠を手渡した。
そして、1897年の末にはエミール・ゾラが主宰する有名な暴露欄である『吾、告発す』に掲載して貰う目的でゾラに一連の情報を提供した。
この行為に対してピカールが軍から受けた『褒賞』は、軍職を剥奪されると同時に、書類改竄と言う冤罪をかぶせられ1年以上に亘り独房に収監される羽目にになった。
1906年になってやっとドレフュスの冤罪が晴れ、ピカールも名誉を回復し准将として陸軍に復帰する事になった。
そしてその年の秋には『吾、告発す“J’Accuse …!”』の発刊元の新聞社のオーナーで、ドレフュスの無実を信ずるピカールの仲間であったジョルジュ・クレマンソーがフランスの首相に就任すると、ピカールは国防大臣に任命されその後3年間その地位に留まる事となった。
第一次世界大戦勃発の6ヶ月前に当たる1914年1月18日、フランス陸軍第二方面軍司令官であったピカールは、乗馬事故で顔面浮腫を患い(事実上の窒息死)享年59歳でこの世を去った。
何人もの人妻を愛人としながら生涯を独身で通した彼には、彼の記憶を引き継ぐ家族もなく、軍部の多数派は彼を同僚を裏切った人物と見做して決して彼を許そうとしなかった。
そればかりか、ドレフュス支持者の中にまで、彼を『反ユダヤ主義者』だと攻撃する者も居るなど、ピカールの人生は生前も没後も歴史の狭間をすり抜けた不思議な人物であった。
今尚、ピカールがあれ程勇敢に闘った数々の不義、不正(本来的に信用出来ない秘密裁判所や機密証拠、自らを法律の様に振舞うならず者の様な情報機関職員の危険性、理性より感情的に反応する政府、自分の誤りを本能的に隠蔽しようとする国家情報機関、民主的な監査を抑圧しながらのさばる国家安全保障など)は健在である。
クレマンソーが『ドレフュスは被害者であるが、ピカールは英雄である』と述べた通り,彼の命日である1月18日には、ピカールに敬意を表するだけの価値は充分ある。
この記事を読んで、ロシアに亡命した当時のスノーデンに対する「裏切り者」一色の米国内世論が、更に情報の公開が進むに連れ微妙に変化し、現在では米国国家安全保障局(NSA)の行き過ぎへの批判が高まり、機密保護法(愛国者法)の解釈変更や法律の見直し論にまで発展している。
そして思い出したのが、以前「規則の解釈お国柄」の例として引用した:
「ドイツでは、禁止されている事は、禁止される。
イタリアでは、禁止されている事も時には許される。
ロシアでは、許されている事も時に禁止される。
イギリスでは、禁止されている事も、許されている事も、明確に書かれてない。」
と言う「ジョーク」であった。
スノーデン事件やウイキリークスの論議の詳細を観察してみると。お国柄を表すジョークと思っていたこのお話は、「ジョーク」ではなく、情報や理解が深まるに連れ変化する法の解釈や価値判断の重要な基軸である事が解ってきた。
そこで次回は「秘密保護(2)―スノーデンは裏切り者か、愛国者か?」と言う標題で、法の解釈変化とその理由を論じてみたい。
2014年1月20日
北村 隆司