原油価格が上がっているとき「積極財政」をしてはいけない


高市首相はガソリン小売価格を1リットル170円に抑え込むため、補助金をばらまく方針を表明した。原油価格は上がっているので、小売価格を抑制すると補助金が激増し、結果的に市場に流通するマネーが増えてインフレは拡大する。

第4次中東戦争(Wikipedia)

1970年代のインフレで「積極財政」をやった田中角栄の再来である。これは一般には「石油ショック」として記憶されているが、次の図を見てもわかるように、物価が上がり始めたのは、1973年10月の第4次中東戦争の1年前だった。このとき中東では何も起こっていない。

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通貨供給と物価(内閣府)

大混乱になっていたのは外国為替市場だった。ドル危機で1971年にニクソン・ショック(金・ドルの兌換停止)が起こって固定為替レートが維持できなくなり、1ドル=360円から徐々に変動為替相場に移行していた。

71年末のスミソニアン合意では1ドル=308円で日米が合意したが、それでも円の先高感が強かった。1972年8月の田中・ニクソン会談では、対米黒字の削減で合意した。田中角栄首相は大型の補正予算を組み、日銀は公定歩合を4%まで下げた

これは円高を防ぐために通貨を供給して円を減価させる調整インフレで、マネーサプライは激増した。石油ショック(73年10月)は、その過剰流動性のピークに偶然ぶつかったのだ。

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調整インフレが「狂乱物価」をまねいた

スミソニアン合意の堅持は田中の公約であり、これには財界も与野党も賛成していた。それを維持するための調整インフレが、政策手段として公然と語られていた。円高は不況の原因になるので、円の切り上げを防ぐためには多少のインフレはやむをえないという発想だった。

『日本列島改造論』でインフレを起こした田中が首相だったことも、日銀や大蔵省の空気に強い影響をもたらしていた。日銀の佐々木総裁は物価上昇を見て公定歩合を上げようとしたが、大蔵省が抵抗し、やっと1%上げたのは73年8月だった。

その2ヶ月後に中東戦争が起こってOPECが原油の禁輸を発表し、原油価格は2ヶ月で4倍になったが、これは消費者物価指数でいうと数%で、それ自体の影響は大したことなかった。日本で買い占め騒動が始まったのはOPECの発表の10日後で、物価はまだ上がっていなかった。

田中はライバルの福田赳夫を蔵相に起用し、福田は「狂乱物価」という言葉で危機を表現して、インフレの沈静を最優先の政策課題とした。日銀は公定歩合を一挙に2%上げたが、物価は年率30%以上も上がり、1974年の春闘ではベースアップが3割を超えた。

為替レートへの不合理なこだわり

こういう経緯をみると最大の岐路は1972年にあり、物価が上がっているときに公定歩合を下げた日銀と、補正予算まで組んで総需要を拡大した大蔵省の責任が大きい。為替レートを維持するために人為的にインフレを起こすなんて本末転倒だが、のちに大蔵省の事務次官になった高木文雄は、この点を反省している。

こういうインフレを起こしたのは、決して田中角栄氏の日本列島改造論によるものではない。私どもの責任であると考えております。とにかく為替レートを動かすことについて恐怖感があったのです。それがインフレの原因ですよ。

1ドル=360円の時代は20年以上続き、それは日本のビジネスの物差しだった。それを動かすことは企業だけでなく、大蔵省の予算編成にも大きな影響を及ぼす。もちろん冷静に考えれば、そんな弊害は問題にならないのだが、人はいったん決めた物差しにこだわってしまう。

この経験を踏まえて考えると、インフレのとき必要なのは給付金でも減税でもなく利上げだが、植田総裁はインフレ目標にこだわって政策金利を上げない。これも固定為替レートのような固定観念だろう。それにこだわるとインフレが止まらず、財政出動でさらに物価が上がるというのが70年代の経験だが、政治家はそれに何も学んでいない。

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