ANAのおちゃらけたテレビCMが「人種差別」ということで問題になっているらしい。
私としては、これは「人種差別」というよりはセンスが悪すぎるというレベルの問題だと思っている。金髪のかつらでとんがったおもちゃの鼻をつけて、「ガイジンさんのイメージ」ときては、我々日本人の世界観は150年以上前のペリー来航時から全く成長していないじゃないか。
同じような話で、以前、五輪招致キャンペーンの一環として、「楽しい公約プロジェクト」というのがあり、テリー伊藤が「私、テリー伊藤は東京招致できたら、欧米人に負けないよう胸毛を植毛します」などといっていた。「ガイジンさんは胸毛がスゴい」などというのは「007は二度死ぬ」(1967年の作品)でショーン・コネリーが今は亡き丹波哲郎となかよくお風呂に入っていたころのイメージ。オリンピックの参加選手は、欧米以外の国からやってくる人が圧倒的に多いということが、昭和20年代生まれのテリー氏の思考回路からぬけているのだろう。
ようするにニッポンのバカなテレビの低予算バラエティー番組ばかりみていると、センスがわるくなるということである。
また、こうした国際的な「彼我の違い」をあげつらうことを、すぐさま「人種差別」と呼ぶのもセンスの悪い話だ。
よく自らの留学経験や海外体験などを語る際に、「最初の頃は、クラスになじめず、人種差別を経験しました...」などと安易に語る人を見受けるが、そうした話の多くはただ単に、ご本人が海外生活最初の頃は人見知りで、異文化を越えた「友だち作り」が上手じゃなかっただけということだ。
本当の人種差別とは、アメリカ到着早々に留学先の世話人に奴隷として売り飛ばされた高橋是清のような経験をいうのである。
日本人にとって「差別(discrimination)」というのは、自分を被害者として主張する場合に使われる言葉となっている。ようするに「自分は悪くない」というニュアンスがある言葉だ。しかし、日本の外にでると「差別(discrimation)」とは、差別を行っている人を攻撃する言葉となる。ようするに「オマエは人種差別者だ」という、弾劾のニュアンスを持つ。
留学先で「人種差別を経験しました」などと安易に口にする人は、最終的には友だちとなったであろうクラスメイトたちを「人種差別者(racist)」とよんでいることに気がついているのだろうか。
今回のCM騒動を2020年の東京オリンピックと関連づけて、「おもてなし」のスピリットの見直しというアングルでとらえた一文を見かけた。結局のところ「おもてなし」の心も、「おもいやり」も、その根本は人と人とのあいだの「信頼」というものに根ざしている。信頼というものは個人のレベルで築かれるものだ。我々日本人のひとりひとりが、世界の人から「信頼に足る」と思ってもらえる日本人になるために、時代錯誤な価値観と世界観に洗脳されぬよう、まずはあまりにもバカバカしいニッポンのテレビをボイコットしよう。