車輪の再発明 - 『遊動論』

池田 信夫
遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)
柄谷 行人
文藝春秋
★☆☆☆☆



著者の『世界史の構造』はブログで酷評したが、いまだにありがたがる団塊オヤジが神田神保町あたりにいるようだ。柳田国男は私も気になっていたので読んでみたが、あまりの無内容にあきれた。

本書の骨格は、巻末の「付論 二種類の遊動性」に書かれている。要するに、最近はやりの狩猟採集民とか定住革命の話を今ごろ「発見」して、柳田の「山人」が狩猟採集民に当たるという。これは網野善彦の「非定住民」とは違う旧石器時代の遊動民であり、それが新石器時代になって柳田の「常民」になったのだという。

常民は天皇制に支配される農民だが、それと対立するようにみえる網野のノマドも、その裏返しでしかない。柳田は初期に山人について書いたが、のちにそれをやめ、常民に関心を移した。それはノマド的な変革を否定するようにみえるが、柳田自身は山人への関心を持ち続けた――と著者はいうのだが、そういう文献的な証拠が何もあげられていないので、本書は学問的には無価値である。

その根拠になっている「発見」も、著者も認めるようにドゥルーズ=ガタリの「戦争機械」の焼き直しである。彼らは資本主義を肯定しているが、著者がそれを「新自由主義」として否定しているぐらいしか違いはない。こんな話は、今ではフクヤマがサーベイしているぐらいおなじみで、気の毒だがオリジナリティもまったくない。

それより深刻なのは、社会の土台が資本ではなく国家であり、それを生んだのが狩猟採集民の戦いだとすると、著者の『世界史の構造』の古くさい唯物史観が否定されることだ。それを考え直すと彼の理論は一から書き直しになるが、もう時間が残されていないかもしれない。今ごろ車輪を発明するのはご苦労様だが、買って読むのは時間の無駄である。