6月7日は中国の大学入学統一テストが行われた。重要な年中行事の一つだ。「678」は中国語の同じ発音で、「録取吧!(合格を!)」の意味。こんな隠語まである。若者たちにとって、6月7日は忘れたくても忘れられない日だ。中国は6月卒業で、まだ就職活動を続けている卒業生もいる。3年生も間もなくインターンが始まるし、海外留学を目指す学生は推薦状を求めてやってくる。
悲喜こもごも。大学内の小さな社会ながら、集まり散じる人々の風景がある。昨晩、北京の有名雑誌で実習中の4年生女子から電話があった。「老師・・・結局、採用されなかった。今日通知を受けた」。過酷な社会の現実だ。月末には卒業式がある。不安な気持ちは痛いほどよくわかる。気丈さを装う声が伝わってきた。
「あらゆる人を訪ねて別のメディアを探そう。必ず道は見つかる。一歩一歩進もう。卒業式の前に帰っておいで」
そう応じるしかなかった。
今朝、散歩しながら撮影した学内の風景を彼女に送った。気休めにしかならないが、気にかけているということを伝えることは大切だ。大都会で、すし詰めの地下鉄に乗り、安くない家賃を払い、若者が必死に道を探そうとしている。なんとか手を差し伸べることはできないか。自分の無力さに嫌気がさす。
今日は午後、もうすぐ2年生になる男子を誘って、午後のお茶を楽しんだ。この先、どうやって大学生活を送ってよいのかわからないのだという。
--ー高校まで、厳しい試験競争の中で暮らしてきた。クラスメートは競争相手であり、敵である。ほとんど言葉を交わすこともない。先生もテストの点数が悪い生徒には冷たい。生徒の点数は教師の評価につながるからだ。こうして教師と生徒の関係も、テストの点数を通じて築かれる。周囲とどのように協力するか、集団生活をいかに送るか、そういうことは教えられない。
---大学に来れば、親友に出会えるのかと思ったが、そうではない。みなが宿題や学校の各種イベント、公益活動に参加して、ゆっくり語り合う時間もない。就職を考慮して、いろいろな経歴を作っておかなければならない。大学は事実上、3年間だ。4年目は就職のためのインターンなどで、ほとんど学校にはいない。技術習得を目的とする専門学校とどこが違うのか。境界はあいまいだ。
ネットをみれば、あらゆるニュースがあふれ、どんな知識も検索できる。いつの間にか読書を忘れていく。読書を知識吸収のための手段だと考えればそうだろう。だが、目的は知識の習得ではなく思想にある。だからこそ、繰り返しの読書によって、新たな発見がある。いわば作者と対話をしているのである。ネットでの議論は、対話と程遠いものが多い。罵り合い、足の引っ張り合い、不満のはけ口。一体、だれがだれに話しているのかもわからない。
議論によって、真実に近づいていく道は閉ざされ、たたくかたたかれるのかの不毛な争いに終始する。最後は、お互いが疲れ果てたところで、別のはけ口がみつかったところで、雲散霧消する。だが人々と心に残った険悪と、不信と、憎悪は消えない。それがまた芽を出して、同じような罵倒を再開する。
私は自分がブログを書いていることを例に出して、彼に言った。
「文章を書くといいよ。自分と対話をする時間になる。出口が見つからないように見えるときも、書くことによってすうっともつれが解けることがある。頭の中にしまっておかずに、手を使い、目で見て、いろんな感覚を動員すると大脳も刺激されるはずだ」
彼は私のクラスの傍聴生だ。単位はカウントされないが、自分の興味だけで出席する。授業中も積極的に発言する。自由研究の宿題を出すと、それも率先してやってくる。正規の学生ではないが、所用で欠席する場合は、事前にメールで届けがある。こんな学生はほかにいない。彼は別のクラスで、先生から「もうちょっと発言を少なくできないのか」としかられたそうだ。情景が思い浮かぶ。黙っている学生の方が多いのだから、それに比べれば断然いい。気にする必要はない。
彼が求めているのは対話なのではないか、と感じた。無我夢中であちこちにボールを投げるのだが、どこからも跳ね返ってこない。そして自分が人と変わっているのではないかと不安になる。慌てることはない。君の住むこの国土は、面白い人物をたくさん生んでいる。
李白は盃を手に、酒に月を写し取り、自分の影まで加えて三人の独酌をした。そんな古人の知恵にならってもいい。文章を書けば、もしかするともう一人の自分が向かいに腰かけているかもしれない。指先に、別の声が呼びかけるかもしれない。同じもの、単一の価値観を求め、安心を得る人たちが多い社会の中で、人と違うのは大いに結構。むしろその独自性を大切した方がいい。
気が付くと3時間近く話し込んでいた。期末テストの作文が、ようやく届き始めた。真剣に自分と向き合った文章。ネットから引用し、体裁を整えただけの作文。文は非常によく人となりを表現する。ごまかしはきかない。どれだけの対話を経たものか、一目瞭然だ。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。