★★★★☆(評者)池田信夫
著者:小塩 隆士
販売元:日本評論社
発売日:2010-06-01
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民主党政権になってから、所得分配の問題が政策の中心になってきた。消費税を低所得者に「戻し税」で返還するという菅首相は、所得が平等であればあるほどいいと思っているのかもしれないが、それならいっそ全国民の所得を同一にしたらどうだろうか?
これはまんざらナンセンスな話ではない。所得の限界効用が逓減すると仮定すると、所得1億円の人から200万円の人に100万円の所得を再分配すると、前者の所得は1%減るだけだが、後者は50%増えるので、この再分配は望ましいようにみえる。これを論理的に突き詰めると、完全平等が最適分配だということになる。「リスク回避」型の厚生関数を考えると、所得の差が少ないほど人々の期待効用は高まるので、やはり完全平等が最適分配になる。
しかしこれは現実に合わないし、多くの人々の合意も得られないだろう。そこで「最低所得を引き上げる再分配は望ましい」という基準を出したのが、ロールズの格差原理だが、これは「無知のベール」という無理な想定にもとづいている。実際の人々は、すでに自分の所得を知っているので、金持ちは再分配を拒否するだろうし、貧乏人は再分配を求めるだろう。後者の要求が前者より正当だという根拠はない。
最適分配を考える一つの方法は、単純な功利主義やリスク回避を考えると完全平等が望ましいのだが、それでは労働のインセンティブが下がってGDPが低下するという効率性基準を考えることだ。インセンティブを最大化するためには何も再分配しないことが効率的だが、これも社会的な合意を得られないだろう。その中間のどこを選ぶかは答が出ない。サンデルも指摘するように、価値から中立な「客観的正義」というのは存在しないのだ。
だから民主党のようなナイーブな平等主義には、論理的な根拠がない。しいてあげれば、所得格差の大きい社会では人々の幸福度が下がるとか、貧しい人が増えるとコミュニティが崩壊して「ソーシャル・キャピタル」が毀損するといった問題だろう。これは重要な問題だが、そういう傾向を再分配で止めることができるかどうかはわからない。
こうした理論的な問題とともに、本書が実証的に検証しているのは、「小泉改革で格差が拡大した」という類の話が実際のデータにみられるかどうかだ。結論としては、ジニ係数でみても貧困指標でみても、2000年代に所得分配が不平等化したという傾向はみられない(平等化もしていない)。はっきりしているのは、不況の中で全体に貧しくなったということである。
本書は専門的だが、厳密に検討すると、菅首相の唱えているような平等主義が社会全体の幸福(welfare)を増大するかどうかは疑わしい。しかも子ども手当のようなバラマキ福祉は、貧しい人への再分配にもならない。明らかなのは、貧しい人に同情していれば票を取れると思って税金をばらまくポピュリズム政治家が有害だということぐらいだろう。
コメント
そもそも、個人の才能、運、実力、等で、所得は不平等で当然だと思います。例えば、サッカーの本田選手と私では、才能、実力、運、の違いで同じ労働時間でも大きな収入の差があります。それが、当然でしょう。無理やり、平等にしなければいけない理由は、どこにあるでしょうか?こんな事を書く私は、極端な「リバタリアン」なのでしょうか?
旧ソ連が身を持って失敗することを実証しましたから、結果平等を望む人なんてもうほとんどいないでしょう。なので格差反対=結果平等主義者というレッテリングはナンセンスです。
問題は「上と下にいくら開きがあるか」ではありません。「下がどれほど切迫しているか」なのです。民度の高さが自慢だった日本で、トヨタやマツダの従業員が自暴自棄を起こすほど事態は切迫しています。少なくとも、ちゃんと働いている人間が生きていける程度の再分配は必要なのに、それがない。ソーシャル・キャピタルの崩壊とはそれを指しておられると思います。
さて「その崩壊を再分配で止められるか分からない」と、肝心な議論をさらっと流して仰る。しかし人々が生活に絶望するから社会基盤が崩壊するわけで、であれば人々が一応生きていけるだけの再分配をするだけでもそれが食い止められるのは自明では? そんなことにまで、実証データを必要とされる態度はおかしいです。飢え死にしそうな人を前に「金をやっても死なないとは限らない。やってみるまで分からない。だからやらない」などと言うのはただの詭弁です。
もっと言えば「一度でも再分配して本当に社会がよくなったら、それが再分配を肯定する厳然たる実証データになってしまう」から、一度たりともそれを試行させるわけにいかないというのが持つ側(とその代弁者)の本音じゃないのですか。
昨今“小さな政府”を主張する人が多いですが、結局「警察など最低限必要なものは維持するが、弱者救済は据え置く」ということです。つまりは困窮者への対策はしないが、その人達が社会から逸脱したら権力を持って取り締まる、と。それはおかしい。まずは困窮者が犯罪や暴動に走らないよう、最低限の生活を保障するのが筋道でしょう。その程度の“出費”すら、バラマキだのポピュピリズムだのと難癖をつけて回避されてしまうのではないか心配でなりません。
>消費税を低所得者に「戻し税」で返還するという菅首相
こんなことをしたら、退職して資産は沢山あるが、所得ゼロの老人に課税できないことになるんですよね。
現状ですでに世代間格差が大きいわけですし、しかも、その格差の原因の一つである財政赤字を作った時に有権者だった老人から税金を取らずに、有権者でなかった若者から税金を取るというのは不公平極まりないですよ。
低所得層が絶望する社会、これを作り出している真因は
マスコミにあると断言してみる。
今の日本、働ける人も働けない人も、
制度的には暮らしていけない程の
貧困はない!しかし、暮らしていけないと言う人は多い。
このデフレ下、生活補償額で暮らしていける。
暮らしていけないと思うのは、生活水準を落としたくないと考える、認識の狭さにある。
マスコミが負け組の存在を許さない。
そんな中で、挽回不可能な不幸を認識してしまう。
貧乏人は、足るを知ることから始めなければならない。
>格差反対=結果平等主義者というレッテリングはナンセンスです。
同感です。こういう主張をしている人はほとんどおらず、こういう極論は
完全に無視して議論すべきです。効率性基準を否定していないのです。
特に、一流のサラリーマンとか医師と一般労働者の待遇を平等にしろなんて思っていません。
インセンティブはどれほど必要なのか?たぶん数倍程度で人は動くでしょう。
かつての高負担の頃の日本または北欧の例があります。
実際、弁護士や医師クラスの年収のために人は死ぬほど努力します。
彼らの平均年収が1500万として、一般人との差は3倍しかありません。
私は20倍ぐらいまでなら普通に許せます。民主党の思想は論理を突き詰めると
完全平等が最適分配だというような話は0か1かのような話でナンセンスだと思います。
彼らは第3の道を考える中道的な集まりですべてが真ん中辺を考えているようにみえます。
仮に民主らが20倍ぐらいまで認めているとしたら、彼らを平等主義者と呼ぶのはおかしいでしょう。
経営者なら年収1億。これぐらい民主も余裕で認めているのでは?年収8億でもOKでしょう。
私はフェアかどうかを重視しています。平等かどうかではないのです。民主にも同じ価値観を感じます。
労働者間の問題より、既得権、情報格差、教育格差、遺産相続などの問題のほうが大きいです。
だから日教祖や官公労、連合が支持母体でも何とか許容範囲です。少なくともお仲間既得権者重視の自民よりは。
>金持ちは再分配を拒否するだろうし、貧乏人は再分配を求めるだろう。後者の要求が前者より正当だという根拠はない。
前者が正当だという根拠もないでしょう。あれば哲学は完了しているのでは?
正当かどうかはわかりませんが、私が分配を求める理由は、きちんと8時間働いて極貧生活では納得できないからです。
貧しい国なら仕方ないですが日本は豊かな国です。人々の悩みはメタボリックとかゴミが多すぎるとか、
物が多すぎて家にスペースがないとかいった贅沢な悩みなのです。このような国で民間が正当な賃金を払わない場合は
政治による再分配が必要だと思います。一方は海外旅行しまくり、高級レストランで食事、メタボリックで、
もう一方は「百姓は生かさず殺さず」のような環境ではあんまりです。
人が嫌がる仕事を一所懸命、悪い環境で働いています。皆さんがやりたくないきつい仕事を皆さんの代わりにやってくれているのです。
町工場、零細企業、介護、派遣労働、清掃業、農業、漁業、林業などいろいろありますが、社会の役には立っています。
豊かな国なんだからまともに働いているならまともに生活できるようにしろという要求です。
最低限、それを実現してから富を漁るべきでしょう。名ばかり管理職とか、非正規差別とかは認められません。
その前提となる正当な根拠はなくてかまいません。富裕層側にもないのだから。
日本の実質GDPを見ると微妙に右肩上がり。貧しくはなってないはずなのに。どういうことなのでしょう?
>>zyousui32さん
GDPやGNP、それらにおける対人口平均、どれも「貧しさ」を計算するのに不適切な基準だからです。
理由は簡単で、「貧しさ」は「裕福さ」を除外、または収入に対して逆進性をとる計算になりますが、GDPやGNPは「裕福さ」を「貧しさ」と同様の1次関数として扱うからです。
例えば、GNPにおいて総収入が当初A11万・B11万、必要な食費5万、家賃最低額3万、水道代1万・電気代1万・電話代5000・ガス代5000とします。
翌年に総収入がA15万・B9万になったとします。
Aは良い家に住む事が出来ますが、Bは基本的な最低額を満たせなくなり、水とガスと電話を使う事を止めました。
この場合、総所得は増えますが、総合した「貧しさ」はどう映るでしょうか?
Aは4万分広い家に行ったので、Bはより貧しくなったが「貧しさ」基準で見て「総合的に豊かになった」と言えるでしょうか?
以降も2者の合計収入を2万増やし、Aは4万、Bは2万減で増やしていきましょう。
Bは翌年は家を失い、4年後には食料を満足に得られず餓死します。
対してAは食事で贅沢をして、5万で健康的な食事が出来ていましたが、贅沢をして7万で食事をしたり、家を大きな場所に移動して7万の家に変えたり、貯蓄をしたりします。
Bが餓死しても数年後には総収入は当初よりは高くなりますが、Bが餓死した分だけAが幸せになったと言えるでしょうか?
食料を得る量が2万分増えて、非貧しさは「5万の食料」の2/5倍の非貧しさになったでしょうか?
家も同様です。狭い家から広い家に移ることで満足は増えるでしょうが、3万の家で生活していた時と10万の家で暮らす事の間の関係は、値段に比例した満足になるでしょうか?
また、新たな技術や社会環境の変化に伴う変化を正しく計算出来ているか分かりません。
例えば、ブラウン管テレビであり、地デジ未対応テレビであり、地デジ対応出来ていない家であり、VHSビデオです。
20年前のPCやモデムもこれに含めて良いでしょう。
地デジ未対応のテレビはチューナーがなければテレビの役割を果たさなくなり、VHSビデオも、今では録画用以外では店舗にDVDしか置いておらず、使えない場合が多いです。
地デジ未対応の家も対応しなければテレビが映らなくなる為、利便性は低下します。
20年前のPCやモデムでインターネットを巡ってみましょう。
コンテンツのほとんどは昨今のPCに合わせて作成しており、XP以前のOS、旧来のCPUのスペックでは見る事が出来ない所が多いでしょう。
フラッシュを使ったページはトップから後を見れません。しかし、旧システムのページが残っているかと言えば更新しており残っていないでしょう。
これらを実質生産や実質所得として反映出来ているのかは保証されていません。
上記の理論を認めるのであれば、総所得や総生産は増大したが、貧困は増加したと言う状況がありえる事は分かるかと思います。
そうでなくても、製品や物品の「破損」も評価に入れなければならないはずですが、これも含めた「実質価値」を評価しているか分かりません。
(耐用年数、今の家の方が戦後の家より下がってるんじゃないでしょうか?)