投資家の眼
「ちょっとちょっと、岩瀬さん!どうなってるの!話が違うじゃない!」
2008年秋、ベンチャー関係者が集うとあるパーティで、ライフネットに投資してくれているベンチャーキャピタルのスタッフに呼び止められた。片手には半分空いた生ビールのグラス、顔はほろ酔い加減に見える。
「当初の計画に、全然達していてない。一体どうするつもりなんですか!」
いつもは紳士的だが、酔いも手伝って本音をぶつけてくれているのを感じた。食べかけのピラフの皿を近くのテーブルに置いて、自分なりに考えていることを答えることにした。
「仰る通りで、立ち上がりはスムーズに行っておらず申し訳ありません。でも、やってみて改めて思ったことは、奇策はない、ということです。投資頂いた前提となるファンダメンタルズは何ら変わっていませんし、やっていることは間違ってないと信じています。今後も当たり前のことを粘り強く、コツコツやり抜くしかないと考えています。」
この答えを聞いて、その投資家は顔を紅潮させて叫んだ。
「そんなんじゃ駄目なんだよ!何かリカバリーするための具体的なプランを出してよ!僕らだって反対を押し切って投資した手前、投資家に対する説明責任があるんだから!」
厳しい指摘に、言葉を失った。同時に、132億円という多額の資金を預かっている責任の重さを、改めて痛感した。
JRの大型広告によって2割強の申込件数増は実現したにせよ、僕らが投資家に提示した計画には未だ到達していないことに変わりは無かった。
立ち上がりの苦戦に不安を抱き始めたのは、この投資家だけではなかった。他の株主からも、この頃のミーティングでは経営のあり方について厳しい指摘がされていた。
「そもそもネットの会社なのに、なぜこれだけオフラインの広告をやっているのか。もっとネット広告にフォーカスすべきではないか。」
「当初想定していた件数よりもずっと少ないのだから、固定費ももっと減らすべきでないか。人員配置は適正なのか」
「マーケティング部隊は生保業界出身者がいないというが、本当にそれで大丈夫なのか。やはり保険のプロを入れるべきでないのか」
いずれも我々のことを心配してくれた親身なアドバイスだったが、生命保険という息の長い商売において、わずか半年で大きな軌道修正はしたくなかった。様々な意見の中で、もっとも本質的であり、反論できなかったのはベテラン経営者からかけられた次の言葉だった。
「ケンカの仕方が人それぞれにあるように、経営のスタイルも様々だから、howについて口出しするつもりはありません。株主の立場で我々がお願いできるのは一つだけです。手段はお任せしますので、一日も早く損益を改善させるか、その見通しを示してください。」
先も述べたように、ネット生保の成長可能性を支える諸々の構造的要因には何ら変化はなかった。我々の理念は絶対に正しい。そのこと自体に疑いを狭んだことは、一瞬足りとも無かった。しかし、一緒に働いている皆の疲労は溜まりつつあった。投資家の間でも、少しずつペイシェンスが失われつつあることも感じ取れた。
もはや問題は、事業の立ち上がりのスピードと皆の勘忍の緒が切れるの、どっちが早いかということにかかっているように思えた。
生命保険の「原価」開示
「そんなことを今やったら、大手の反感を買うだけだ。我々の足元の状況に鑑みて、偉そうなことを言っても評価してもらえないのでは。デメリットも勘案して、慎重に審議すべきだ。」経営陣からも、疑問視する指摘があった。
ここで議論の対象となっていたのは、これまではブラックボックスとなっていた「保険料の内訳」をライフネットの保険商品について公開しよう、という出口の発案についてである。
生命保険の保険料は保険金や給付金の支払いに充てられる「純保険料」と、保険会社の事業経費に充当される「付加保険料」に分かれるが、このコスト構造を商品選択の材料として顧客に提供しよう、というのだ。
保険業界外から来た身としては、これが何故大変なことなのか、今一つ理解できなかった。
元来、金融商品は差別化ができないものである。生命保険で言えば、本質的には「被保険者が亡くなったら1,000万円払います」というだけのものであり、他の細かい商品性の違いは顧客にとってはディテールに過ぎない。
金融商品の本質的な競争力は、ROI(投資収益率)で計られるべきである。投下した資本に対して、(リスク等を考慮した後に)いくらのリターンが得られるか、である。生命保険も保険数理上の計算の元に設計された金融商品としての側面を持つ以上、この視点は商品選びの上では欠かせない。
そして、このROIに大きな影響を与えるのが手数料なのである。例えばネット証券で株式取引をやる人、投資信託を買おうとしていうる人、あるいは新たに銀行口座を開設しようとしている人で、諸々の手数料を考慮せずに選ぶ人がいるだろうか?言うならば、金融商品にとって手数料は競争力を決める最も重要な要素の一つなのである。ハーバード留学中にはノーベル経済学者でファイナンスの大家、ロバート・マートン教授の講義を受けたが、第一回の授業はすべて金融商品の手数料に充てられていた。
以上のような考え方に立てば、我々が生命保険商品の手数料を開示することはお客様に対して当然の義務であって、特段取り立てて騒がれる類のことではないと考えていた。
「付加保険料を開示する」という方針は、実は出口が新会社立ち上げの構想を練っていた最初の頃から揚げていたものであった。
「日本の生命保険会社のローディング(付加保険料)は高すぎる。これを大幅に引き下げ、かつ全面公開する。」
そして、本当は開業とともに付加保険料の開示を検討していたのだが、まずはオペレーションを安定化してから様子を見よう、との結論でひとまず見送られていたのである。
それでは、金融庁はどう反応するだろうか?同庁は競争促進による健全な業界の発展と、保険会社の経営の安定性確保という、時には相反するミッションを有している。いずれも、最終的な目的は契約者保護にあるのだが。価格をガラス張りにすることは情報開示を推し進める上では好ましいが、過度な価格競争を引き起こすような事態は望ましくない。
結局、答えが明確にある訳ではないのだが、2006年に付加保険料を商品認可の対象から外し各社経営の裁量に委ねた業法改正の趣旨と、ガイドライン等を通じて明確に示されている消費者の趣旨から考えて、きっと反対することは無いだろう、と判断した。
最終的には、2008年11月19日の取締役会で、21日に発表する中間決算と共に、次のような内容のプレスリリースを出すことを決議した。
徹底した情報公開を目指すライフネット生命保険、付加保険料率の全面開示へ
2008年11月21日
各位
ライフネット生命保険株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:出口治明、以下「ライフネット生命」)は、情報開示を徹底することがお客さまに信頼いただくサービス提供の基本であるという考えにもとづき、生命保険料のうち生命保険会社の運営経費にあたる付加保険料の割合を、全面的に開示することとしました。
具体的には、当社がインターネット等を介して直接販売する保険商品に関して、お客さまからいただく保険料を
・ 純保険料(年齢・性別・金利水準などによって変化する、いわば生命保険料の原価に相当する部分)
・付加保険料(生命保険会社の運営経費に相当する部分)
に分けて開示します(添付(1)、(2)「保険料内訳表」参照)。
内容としては「生命保険業界における情報開示の潮流」という文脈に乗せて語ることとした。同時に出口が趣旨をブログで書くことにした。
後は、日銀クラブに投げ込み、反応を待つだけだった。
業界”タブー”の開示
プレスリリースを出した翌22日、記事として取り上げてくれたのは東京新聞だけだった。記事は今回の開示の狙いと意義を正確に描写してくれた。
「これまでは、保険料のうち、どれくらい保険金の支払い原資に充てられるかは契約者に分からなかった。業界の“タブー”と言える保険料の構造を開示し、他社との差別化を図るのが狙いだ。」
「予定利回りや年令なので決まる純保険料は金融庁の認可制で『類似商品で大差はない』(大手生保)という。一方、営業職員の削減などで圧縮可能な付加保険料の値段は会社が機動的に決められるが保険料全体の低下につながっていないのが実情だ。ライフネットの出口治明社長は『自主的な開示で業界に競争を促したい』とする。」
しかし、報道はこれで一旦止まり、鎮静化したようにみえた。10日間ほど、他の新聞雑誌では報じられなかった。
「いやー、大手生保は相当嫌がってましたよ。ライフネットさんの話を向けると、ムッとして口をつぐむ。今回の件も、自分たちの中間決算できかれたらどうしようと、事務方は想定問答作りで四苦八苦してたみたいです。」
神楽坂のある鳥鍋屋で、懇意にしている新聞記者がそっと教えてくれた。何も他社を刺激すること自体が目的だった訳ではないが、我々が投げかけた問題提起を意識してくれたのは嬉しかった。
12月に入って、再び報道が始まった。朝日の辣腕記者、山田厚史氏は、アエラに次のように挑発的な記事を書いた。
「金融担当記者だったころ『手数料はどれだけ?』と何度も取材したが、『企業秘密』と拒まれた。『保険のおばさん』が手間暇かけて売っているから手数料が高くなる・・・・素うどん専門(特約全廃)のライフネット生命は他社の素うどんと比較する情報を公開した。さあ大手はどう応える。立ち食いうどん屋でも、イカ天やキツネの値を表示してるぞ。」
12月4日には日経新聞が大きな記事で続き、少しずつ波ができた。そして、本当に大波を起こすきっかけとなったのが、12月8日、週刊ダイヤモンドの記事だった。
「業界初!“保険の原価”を開示したライフネット生命に怨嗟の声」
(つづく)
* 過去の記事は こちら です
* ライフネット生命のHPは こちら です