「最小不幸社会」という菅総理の発想を問うべきだ

大西 宏

菅総理が、国連演説にまで「最小不幸社会の実現」をもちだしたのですが、疾病を間違って読んでしまったおまけまでつきました。しかし、誤読を揶揄するよりは、「最小不幸社会」が、ほんとうに日本が目指すべき社会のありかたなのか疑問に感じます。

現時点では、どうしても、目先の円高問題や、尖閣沖での漁船衝突事件をめぐっての、中国の強硬姿勢や政府対応に問題がなかったのかということに目が奪われてしまうのはしかたないこととして、「最小不幸社会」というビジョンの是非についてはもっと議論が必要だと感じます。


まず、菅総理がなぜ、わざわざ国連で「最小不幸社会」をめざすという演説を行ったのかはよくわかりません。いったいどの国々にアピールしたかったのでしょうか。そのターゲットが想像できないのです。はたして、諸外国が日本に期待するニーズに合っているのかという疑問が湧いてきます。

アジア近隣の途上国からすれば、グローバルな水平分業の進行で、経済成長を遂げてきており、やっと国民の生活レベルが向上しはじめたばかりです。戦後や高度成長期の日本で、なぜ人びとが働いたのか、それは貧しさからの脱出であり、先進国にすこしでも追いつき、もっと豊かな生活を実現したいという強い思いがあったからでしょう。途上国の人びとの気持ちも同じだと思います。

途上国が期待するのは、日本が経済のリーダーシップを発揮することだと思います。それぞれの国の経済の成長を促す投資であり、技術移転であり、さまざまな社会インフラの運営などに関わるノウハウでの援助、また日本との貿易の拡大でしょう。

もし、日本の戦後や、高度成長期で「最小不幸社会」というスローガンを掲げて、共感されたのだろうかと考えれば誰でもわかることだと思います。日本はずいぶん後ろ向きになり、ますます国際的なプレゼンスを失っていく宣言を行ったと感じるのではないでしょうか。

海外で共感を得ないばかりか、国内に視点を移しても、「最小不幸社会」は、ほんとうに日本が進むべき進路を示しているかは疑問です。「最小不幸社会」の言葉から受ける印象は、きわめて改善主義的な発想です。

ここができていない、就職できない人がいる、だから就職先が増えるように改善しよう、補助金をだそう、もっと医療費を増やしていこう、そうすれば不幸は減るだろうという発想を感じてしまいます。

しかし、ほんとうに今求められているのは改善でしょうか。違うはずです。改善主義は、いい時代、産業が伸びている時代には武器になりますが、社会の変革を求められているときには、時にはブレーキとなります。
日本が、工業化社会から、情報化社会への移行することが遅れたのも、古い産業でも、改善していけばよりよくなるという発想があったからだと思います。

日本の産業に求められてきたのは、改善ではなく、より付加価値の産業への移行であり、イノベーションでした。産業構造の転換や、イノベーションを起こすことと、改善発想は根本的に異なります。

若い世代の所得を高めていかなければ、福祉や医療に限らず、社会の維持コスト負担に耐えられず、高負担、低福祉国家の道をつきすすむことになります。
それでは、少子高齢化社会にむかっていく日本はもちません。若い世代への負担が増えるのはしかたないとしても、それに耐えるだけの所得を実現できなければ、みんなで沈みゆく泥船に乗ることになります。

鍵は社会を支える若い世代の所得水準をあげていくことです。社会を支える人たちが貧しければ、社会を支えることができなくなってしまいます。

若い世代の所得を高めていく方法を真剣に考える時期が迫ってきているのだと思います。そのためには、若い世代にはやく主役を移すこと、つまり産業界の世代交代を進めることと、若い人たちに、より付加価値の高い産業の創造にチャレンジしてもらい、また活躍してもらうことしかありません。

若い世代の人たちが、若いエネルギーを発揮し、また創造力を活かして、思い切ったチャレンジができる機会を生み出すことです。それは政府でも、教科書のデジタル化、リッチコンテンツ化などで機会づくりもできるでしょうし、またさまざまな規制緩和を行えばできるはずです。

アメリカのグーグルやアップル、またその他の元気な情報産業は、製造業で日本やドイツに敗れたアメリカが、更地に新しい産業を育てる政策をとったからでした。だから創業者が多いのです。

しかし、日本の現実は逆方向に行っています。製造業の製造現場が海外に移転し、雇用を支えてきたのはサービス業ですが、同じサービス業といっても、増えたのは飲食業や宿泊業の雇用、とくにパートタイマーであり、高度な付加価値をもったサービス業ではありません。
若い人びとの雇用を増やすことはいいのですが、それが低賃金化というのでは困るのです。製造業に固執すれば、途上国の賃金に限りなく近づいていきます。
「失われた15年間」の雇用と賃金構造の変化(1) -野口悠紀雄教授

本来は付加価値の高い職場であったはずの情報通信産業も、実態は3Kと呼ばれるように労働条件が悪化し、そこには若い人びとが活躍できているという姿はありません。問題はそこにあるはずです。

「最小不幸社会」は、マイナスを埋めていくということになるでしょうが、本当に求められているのは、生産性を引き上げていくことだと思います。少なくとも、ここに活躍の場があり、政府は規制緩和でバックアップしますというメッセージを送ることでしょう。

改善主義は、菅総理の翻意ではないのかもしれませんが、ビジョンはコンセプトの魅力がなければ効果がありません。翻意でないとすれば、言葉のセンスがないのです。

「最小不幸社会」という目標では、若い人たちに夢も希望も持ってもらえません。若い人たちだけでなく、高齢者にとっても、経験を活かした第二のビジネスキャリアにチャレンジしよう、ボランティアでも社会に貢献しようという意欲も湧いてきません。

菅総理の「最小不幸社会」という言葉を聞くたびに、日本はついに夢や目標を失って、成熟した豊かさも実感することもできないままに、このまま沈んでいくのかというのかと感じるのは私だけでしょうか。

コア・コンセプト研究所 大西 宏

コメント

  1. r40neet より:

    >失病を間違って読んでしまったおまけまでつきました。

    「疾病(しっぺい)」貴方様も読めてないのでは・・・?

  2. kinkiboy より:

    ご指摘ありがとうございました。訂正しておきました。
    大西宏

  3. ノッチ より:

    宮台真司氏がビデオニューズドットコム515回の中で 

    「その言葉は実は、リチャード・ローティというアメリカのですね、哲学者の『政治の目標は残酷・残虐の回避である』ていうその言葉をね、僕なりに言い換えて、その、菅さんにお渡ししたものなんですね。

    それはどういう事かというと、何が幸いなのかというのは人によって共同体によってずいぶん違う、だからこれこそが幸いだっていう、上から目線で押し付けるのは止めてくれと、 ただ、病気は嫌だとか、苦しいのは嫌だとか、ね、あるいは痛めつけられるのは嫌だとか、戦いは嫌だとかいうのは多くの人間にとって共通しやすい、つまり、残酷は多くの人にとって嫌なんですよね。

    だからこの部分に最も多くのリソースを避けってのがリチャード・ローティの議論で、それを一応菅さんにお伝えしたつもりなんですね。」

    とおっしゃっています。