日本的社会保障観 - 齋藤 和英

アゴラ編集部

9月10日の池田信夫blogに興味深い記事が上がった。

所得を「逆分配」する国

これによると日本では社会保障によって所得を再配分した後の方がする前よりジニ係数の国際順位が下がっている。社会保障が所得の平準化を目的に行われるものと漠然と了解していた私には信じられない情報だった。だが、よく考えてみると確かに日本の社会保障は所得の平準化を目指しているとは思えない側面がある。日本には、「正直者が馬鹿を見ない社会」を目指そうとする国民的合意が存在する。真面目に税金を払うものはそれによって利益を得る。働かないで暮らそうとする人間にはそれ相応の不利益がもたらされる。そんな社会こそ当たり前で実現すべき社会であると思い込んでいて、それを前提に社会を設計、構築しているのだから所得再配分も負担した者に厚く、負担していない者に薄いものにならざる得ないだろう。つまり、通常考えられるような「弱者救済」的な社会保障より「自立支援」こそ日本的な文脈における社会保障の精神だと考えられる。


日本社会は多分国際標準では測れない。経済的自立が強く求められ、技術信仰が高く、人々は理由なく勤勉で、社会貢献を無上の価値と考えている。金銭は最低のものであり、人を信じるのが美徳で、長い付き合いを持つ相手との交渉の勝利は心理的な借りになる。はっきりした宗教を持たず、世界最古の王室をその代用とする。更に、国家と言語圏と固有の通貨圏が重複する。食事にこだわり、性に淡泊。贅沢や華美は推奨されない。他にも色々あるだろう。我々は我々の特殊性をもっと自覚する必要がある。安易に海外の事例を参考にすることが時に逆の効果をもたらす危険を承知すべきだ。

最近は日本円や中国元などの通貨相場の適切な水準に関する論議、論争がよく聞こえてくる。経済学的には国際収支がプラスマイナス0になる為替水準が適切な水準であろうが事はそれほど簡単ではない。日本の社会は貿易黒字が出る社会構造を完成させており、これを変更するのに膨大な経費を必要とするのと同時に日本文化の変容すら覚悟する必要があるからだ。通貨高を是正するのにどうすればよいのか参考になると思われる海外の事例は実はたくさんある。例えばギリシャだ。旧通貨ドラクマの慢性的な弱さに苦しんだギリシャ政府は政府決算の粉飾すら行ってユーロ加盟を実行した。先般のギリシャ危機で聞えてきたこの国の状況は、公務員が多数で高給。国内に有力な製造業はなく、年金は高額で支給年齢も早い。つまり、通貨を安くしたいならそんな国家になればよいのだ。ところが日本政府がバブル崩壊以降行ってきたことはその真逆なのである。これでは、通貨高を食い止めることなどできはしないだろう。それで、無理やり通貨高を回避するため行われたゼロ金利政策は円のキャリートレードを発生させ、今回の金融危機の下地になった世界的バブル発生の遠因になりはしなかったか?

30年前、私が学生だったころ、市場経済を扱うミクロ経済学と国民経済を考えるマクロ経済学の存在が大きく、国際経済学はリカードの比較優位論ぐらいしかなかった。印象では今もそれほど状況は変わっていないようだ。もし、私の印象がそれほど間違っていないなら、適正な為替水準を導く理論的な背景は何もない状況だ。ミクロ経済学が市場で行動する個人や法人の行動分析を行い、マクロ経済が国家の財政と国民経済を考察するなら、その上のレベルである通貨圏全体を把握する経済学の分野があってもいい。いや、ユーロの危機的状況をみるとこの分野の研究こそ必要なのではないだろうか。ミクロ的には正当である国家財政の規律も国民経済や通貨圏全体の活性化から考えて適切なものなのかどうか。その中で社会保障をどう位置付けるのか。必要悪であるとの認識で対症療法を行うよりもっと深い考察が求められる。お隣の中国が多額の貿易黒字を持ちながら、社会保障をケチって国内の治安を悪化させている事実。人民元を安く維持しないと国内産業が壊滅かもしれない危機意識を持つが故に東南アジアとの投資誘致合戦に負けつつある現実。ギリシャと中国、二つの海外事例をよく見たうえで、日本文化の文脈を生かした前向きの社会保障理念が今求められる。
(齋藤和英 郵便事業会社職員)