文化勲章追認への疑問 ― ノーベル賞受賞目標は取り下げたら?

北村 隆司

文化の日は、日本の最高の栄誉賞である文化勲章が宮中において天皇陛下から親授される日でもあります。今年の受賞式典には先にノーベル化学賞の受賞が決まった鈴木北海道大学名誉教授、根岸パーデユー大学教授両夫妻の晴やかな姿も見られました。受賞者には心からご祝福申し上げたいと思います。


我が国の文化の発達に関して顕著な功績のあった者に対して授与される文化勲章は,文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会に属する委員全員の意見を聴いて文部科学大臣から推薦された者について、内閣府賞勲局で審査を行い,閣議決定されます。

一方、世界の最高の栄誉賞であるノーベル賞を誰に与えるかは、ノーベル委員会が全世界の主要大学や専門家に極秘に他薦を依頼し、送られてきた被推薦者をもとに、委員会が独自の判断で受賞候補者リストが作成され、そこから受賞者が選考される事になっています。

かと言って、ノーベル賞の選考にも政治の世界の陰が色濃く反映した時代もありました。北里柴三郎が最有力候補でありながら第1回ノーベル医学・生理学賞の受賞を逃し、論文の大半は北里の研究成果であったにも拘らず兄弟弟子であったドイツのフォン・ベーリングの頭上に輝いた真の理由が、有色人種に対する偏見であった事実や、野口英世の梅毒の病原体スピロヘータ発見、長岡模型で有名な長岡半太郎やビタミンB1(オリザニン)の発見者の鈴木梅太郎、山極勝三郎の「コールタールによる発ガン説」等がが認められなかった経緯には現在とは比較になぬほどの人種差別が強く影響していたと言われています。

然し、ノーベル賞の中でも、自然科学3賞(物理学、化学、医学・生理学)はその国の科学・技術や産業の水準を量るバロメータにもなっている事や、科学の進歩に真に寄与した研究者に贈られ続けて来た事から、その価値の高さを示して来ました。

それに比べると如何にも官僚的な文化勲章の受章選定方式が、その権威を傷つけている事は間違い有りません。日本人のノーベル科学賞受賞者15人の中、9人までもがノーベル賞受賞決定を知った日本政府が慌てて文化勲章を追認した事実もあやふやな価値観の証拠です。

アメリカがノーベル賞受賞者数で世界を圧倒し、世界の科学・技術研究開発の中心が戦前の欧州からアメリカに完全に重心を移してしまった背景には、ことを成すに当たって、民主国家の基本である、進むべき方向を見据えて、コンセンサスを作る国家ビジョンを明確に打ち出す事を忘れてはなりません。

2001年の日本政府の総合科学技術会議は、その国の科学や技術の水準をはかるバロメータでもあるノーバル賞受賞数を明確な目標に掲げ、50年間に30人のノーベル賞受賞、総額24兆円の政府研究開発投資、生命科学・情報通信・環境・材料の4分野の重点化などの主要項目を追認した上で、研究内容や成果を社会に対して説明することを基本的責務とし、優れた成果の創出・活用のためのシステムの改革、テーマを公募して、配分する競争的資金の倍増。獲得した競争的資金に応じて、研究機関が自由に使える間接経費を支給、若手研究者の研究環境整備、評価システムの改革、産学官の連携、技術移転の推進、大学施設・設備の計画的整備などを大々的に宣伝しました。

然し、仕分けのスパコン騒動でも明らかになった通り、進むべき方向を見据えて、透明性を維持しながらコンセンサスを作る国家ビジョンを打ち出す道は遅々として進んでいません。

一昨年、国際免疫学会の会長をしていた米国の学者にお供して日本のガンの研究関係者と懇談をした後で、その老学者は「免疫分野で,こんこんと湧き出る泉の如く基礎研究成果を排出する日本だが、役に立つ研究成果が全く出ない日本の現状は、砂漠のワジ(水なし川)の如く不思議でならない。日本の制度に致命的欠陥があるに違いない」と述べて居た事が印象的でした。

ノーベル委員会が見つけるまで研究の価値が判らないだけでなく、桐花大綬章,旭日大綬章、瑞宝大綬章など宮中において天皇陛下から親授される勲章のリボンの色で官僚出身者と民間出身者の差別をつけてほくそえむ官僚に「50年間にノーベル賞受賞者30人」という夢の実現を託すなど「冗談」としか思えません。

企業なら目的が達成されなければ潰れるわけですが、「独占をし、権力を伴い、しかも結果に責任を取らなくてもよい価値観で育った官僚」に日本の教育を任せておいてよいのでしょうか。日本の叙勲シーズンの度に思う疑問です。