ウィキリークスとジャーナリズムの関係

小寺 信良

12月4日にニコニコ生放送にて、「ウィキリークスとジャーナリズム ~正義か、犯罪か?~ 」が放送された。MIAUの八田真行が出るというので見ていたのだが、一晩寝て頭をすっきりさせると、「重信メイかわええ」以外のことに気がついてきたので、書いてみる。


これまでもネットというのは、リーク先として使われることは多かったわけだが、それの総本山的なところができてきて、いよいよ国家単位のリークが集まるようになったことから、様々な批判が集まってきた。当然、情報が盗まれたとされる国にとっては、脅威となり得る存在なので、つぶすために圧力をかけるだろうが、一度こういう方法に人類が気づいてしまった限り、一つをつぶしてもいたちごっこである。

ウィキリークスを擁護するのは主にジャーナリストで、特に大手メディア社員ではなくフリーランスであるあたりが興味深いところだ。しかしここで我々が考える必要があるのは、「知る権利」の解体なのではないかと思う。

過去リーク情報握っている人間がその情報を広く公開するためには、ジャーナリストの力を借りなければならなかった。つまり、国民の「知る権利」が具現化されるためには、ジャーナリストによる「知らせる権利」がイコールだったわけである。

しかしネットの登場によって、事情が変わってきた。情報を持つものが直接、ジャーナリストやメディアを通さずにリーク情報を広く知らしめることができるようになってきた。ウィキリークスも一つのメディアでありジャーナリズムの一部であるという見方もできるが、これはリークする側にとっては単に「身の安全が確保できる仕掛けを持っているネットソリューション」にしか過ぎない。これも存続の危機ということになれば、別のソリューションを探すだけのことである。

国民、というか情報を受ける側の人たちにとっては、知りたい情報はありがたく頂戴するが、知りたくない情報、例えば自国や自分個人にとって不都合な情報に対しては、知る権利を行使しない。米国の反応がいい例で、ウィキリークスが中国のリークを流していたときは絶賛し、自国のリークが流れたら大たたきする。大手メディアは自国民にウケる報道を行なうので、それを反映する。

人々の知る権利は、公平ではないわけだ。それでもウィキリークスをつぶしてはならないというロジックを成立させるためには、これは「知らせる権利」なのであると、分解して語った方が腑に落ちるのではないかと思った。ウィキリークスを擁護するジャーナリストの立場は、この知らせる権利を擁護しているように思える。

番組中でリーク内容の正誤を判断するのは誰か、というアンケートでは、「個人」という答えが最も多かった。だが個人というのは、自分の信じたいものを信じる、あるいはそうあったほうが面白いものを真実として受け止める傾向があり、訓練されたジャーナリストのように社会正義とのバランスの中で葛藤したりしない。個人に判断をゆだねるのは、結局は何も判断しないということとあまり変わらないように思える。

僕個人の考えでは、それらリークの裏を取る作業こそ、従来メディアの役割になっていくべきだと思う。もはや従来メディアは、第一報を伝えるという役割を終えようとしている。個人にはない予算と組織力を使って、じっくり腰を落ち着けた、裏がとれた解説を中心とする報道に切り替わっていくべき時代がきたのだろう。

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コメント

  1. matsui_taku より:

    「知らせる権利」とおっしゃっているのは、要するに表現の自由のことですね。

  2. どんなコメントが付くかなと10日ほど注視していたのですが、マスコミが積極的に報道しないせいか、反応が芳しくありませんね。普段マスコミを批判しているような方も情報の入手は結局そのマスコミに頼っているという矛盾を垣間見たような思いです。

    >国民、というか情報を受ける側の人たちにとっては、…
    つい最近の尖閣ビデオ流出騒動が、まさに好事例ですね。核密約を暴露した時は民主党もマスコミもこぞって大成果とおおはしゃぎで、対米外交、何それおいしいの? という状態でした。ところが、公安情報の漏洩についてはネットで暴露されたから仕方なく通り一遍の発表をしただけで民主党もマスコミも頬被りしています。日本の情報管理に対する信頼度を大きく損ねる事件であり、警察/公安委員会の大失態なのですが、真実を追究する論調にはついぞ接したことがありません。尖閣ビデオに至っては「犯罪!犯罪!」と声高に叫び、政府/与党とマスコミとも公益通報者保護法のことなど綺麗さっぱり忘れ去った風情でした。ということを踏まえると、

  3. >人々の知る権利は、公平ではないわけだ。
    と安直に結論するのはいかがなものかと思われます。確かに誰だって知られたくないことはありますが、それを「人々の知る権利は公平ではない」と表現するのは明らかにミスリードです。ある情報は知りたがりある情報は知らせたがらないという「人々が公平でない」という事実を「知る権利の公平性」と混同させるのが意図的なものだとしたら、所詮あなたも日本のマスコミ人(あえてジャーナリストとは言いません)に過ぎないと言わざるを得ないのですが実際のところはどうなのでしょうか。日本のマスコミは、麻生前首相の漢字の読み間違えなどを民主党と組んで全力で叩き解散総選挙へ追い込んだのですが、民主党の首相、大臣の失言、暴言、利権については堅く口を閉ざしていますしね。公平ではないのはまず第一にマスコミであって人々ではありませんよ。

    >それでもウィキリークスをつぶしてはならないというロジックを成立させるためには、これは「知らせる権利」なのであると…
    しかし、もし「人々が享受する知る権利は公平に与えられていない」という趣旨ならば、その後に続くこの論述は矛盾することになります。もちろん私はア・プリオリに知る権利は公平だというつもりはありません。しかし公平に与えられていないと述べるならウィキリークスの存在価値は自明です。まさしくその「知る権利に関してあらゆる人々に公平に機会を与える」のがウィキリークスの存在意義だからです。莫大な外交公電の公表は、ある意味、現在のパックス・アメリカーナと人々の知る権利を天秤にかけて、どちらを取るか世界の人民に判断しろと迫ったことにほかならないのですから。そうすると「知らせる権利」云々は情報提供者と大衆の間に立って情報の取捨選択に介入して生き延びようとするジャーナリストの悲痛な叫び、敢えて悪く言えばマスコミの利権確保のための理論武装にしかなりません。

  4. 実際には、ウィキリークスは情報を公開する前に、彼らが「主要」と思うマスメディアへ予めリークして、情報を精査し、ウラを取る期間を与えています。彼らは「知らせる権利」について、充分に配慮したのですよ。日本のマスコミがどこも選ばれなかったのは残念ですが、イエローペーパー扱いを受けたのは日頃の行いと言わざるをえません。事実、ウィキリークスによって公開された情報が出回るようになると「暴露系サイト」などと品位を貶めるような報道をし、リークされた情報が偽造であるかのように伝え、一貫してその信憑性を疑わせるようにほとんどのメディアは努めていたではありませんか。信頼されなくても仕方ありません。

    >番組中でリーク内容の正誤を判断するのは誰か、というアンケートでは、…
    いえいえそうではありません。ニコニコを普段からご覧になっていればおわかりだと思うのですが、それは日本のマスコミが一切信用されていないという事実を表しているだけですよ。余計なフィルターをつけるマスコミは信用できないから「個人」である自分が判断すると言っているのです。それを

    >訓練されたジャーナリストのように社会正義とのバランスの中で葛藤したりしない。…
    と仰るのは、愚民に物を教えてやるという上から目線でしか物事を捉えられないマスコミの傲慢というものです。すべての個人が社会正義とのバランスで葛藤したり、決断したりするかというと、実際はそうではありません。しかし、ジャーナリストならそうするし、そうできるというものまた幻想です。そうあるべきという意味では同感ですけど。

  5. >僕個人の考えでは、それらリークの裏を取る作業こそ、従来メディアの役割になっておくべくだと思う。…
    私は中学生の時、まさしくそれがマスコミの存在意義だと学校で教えられましたが、やっと現実が理想に追いついてきそうだということでしょうか。政界、財界の裏をスクープしてきた大先輩方は一体どう思われるでしょう。ちなみに私は50歳です。

    >個人にはない予算と組織力を使って、じっくり腰を落ち着けた、裏がとれた解説を中心とする報道に切り替わっていくべき時代がきたのだろう。
    同感です。同感なのですがしかし、インターネット輿論の中心はまだ若い世代であり、私などロートルに近い方です。その若い世代からこれほどマスコミが支持されなくなった時代もおそらく初めてだと思います。いや、マスコミ人はむしろ敵意をもたれていると認識すべきだと思います。良きにつけ悪しきにつけ時代を引っ張ってきたのが―それが戦争という行為であっても―常に若い世代であったのは確認するまでもない事実ですが、その世代からNOを突きつけられたマスコミが今後、健全に生き延びることができるよう、衷心より願ってやみません。