今次の金融危機の経験は、(とくに米国の)経済学界にもいくつかの変化をもたらすものとなった。そのうちの1つは、第一級の経済学者が一般読者向けの経済書を書くことを必ずしも厭(いと)わなくなったことである。
従前は、一般読者向けの経済書を書くことは、専門的研究者にとって「害あって益なし」の作業だとみなされていた。というのは、かりに世間的に成功しても、むしろ専門家集団の中での評価を下げることにつながったからである。ミルトン・フリードマンがジョン・ケネス・ガルブレイスを真っ当な経済学者だとは認めず、ガルブレイスがアメリカ経済学会の会長に就任することに反対したことは、その有名な実例であるといえよう。
最近ロバート・シラーは、そうした事情を次のように述べている。
Until recently, many professional economists would be reluctant to write a popular book. Certainly, it would not be viewed favorably in considering a candidate for tenure or a promotion. Since it does not include equations or statistical tables, they would argue, it is not serious work that is worthy of scholarly attention.
Worse than that, at least until recently, a committee evaluating an economist would likely think that writing a popular economics book that does not repeat the received wisdom of the discipline might even be professionally unethical.
最近まで、多くの専門的経済学者は一般向けの本を書くことに気乗りしないようであった。確かに、長期在職権や昇進の候補者の評価にあたって、一般向けの本を書いていることは有利にはならなかった。方程式や統計表を含むものではないので、一般向けの本は学問的な関心に値する真摯な業績ではないと、多くの専門的経済学者は主張しただろう。
さらに悪いことには、少なくとも最近まで、経済学という学問で認められている見識(定説)を復唱したものではない一般向けの経済学の本を書くことは、専門家としての倫理にもとることであると、(昇進などに際して)経済学者を査定する(ために構成される)委員会は考えがちであった。
こうした傾向は、わが国の学界にも近年はますます影響しており、若手の経済学研究者は、「専門研究に充てる時間を削って」一般読者向けの経済書を書くことに、若干の後ろめたさを感じざるを得なくなっている。換言すると、一般読者向けの経済書を書くことは、若手の経済学研究者にとって「釈明」を要する行為なのである。例えば、私と同じ大学に所属する渡部和孝君は、その著書『ダブル・クラッシュ』の序文に、
筆者を含む近年の若手経済学者は、国際専門査読雑誌(ジャーナル)への論文掲載を中心に研究活動を展開しており、本書のような、一般読者向けの書籍の執筆の重要性が学界では低下していると感じている者が少なくない。にもかかわらず筆者が本書の執筆を思い立ったのは、研究者を志した初心に戻り、専門的な研究を積み重ねている研究者として、現実的な政策提言を行いたいとの思いからであった。
と記している。そういうわけだから、私のように書き物の大半がもっぱら一般読者向けといった人間は、アカデミックには身を持ち崩しているとみなされている。ただし、不良債権問題と金融システム改革にかかわりすぎて、こうなったことは自分でも認めているので、そうした評価に不平不満があるという意味ではない。
ところが、今次の金融危機を経て、現実との関わりを強めることの意義が再認識されるようになって、まだ学界で必ずしも定説とはなっていない見解を含めて、広く一般に意見を問うという姿勢に転じる経済学者が少なくなくなってきた。第一級の経済学者の中でも、かねてから一般向けの本も書いていたロバート・シラーのみならず、ケネス・ロゴフ、ラグラム・ラジャンといった研究者が一般にも比較的アクセスしやすい形態の書籍の出版を積極的に行うようになってきた。
こうした動きは、基本的に歓迎すべきものだと考える。しかし、それらの成果が日本国内に紹介される際に、上述してきたような事情が理解されていないがゆえの配慮不足のようなものがみられるのではないかと懸念される。
一般向けに書かれているからといって、それを翻訳しようとする者が読み手と同程度の一般的教養さえ有していればよいということにはならない。翻訳家の山岡洋一氏風にいうと、原著者が日本語で書いたならこう書いたであろうという日本語文にするのが翻訳なのだから、そのためには翻訳者には書き手(原著者)のレベルの知識が求められる。翻訳とは外国語の原文を読み、その意味と内容をすべて理解し、それを母語で伝える作業であるとすれば、原著者レベルの知識がなければならない。
しかし、同じ一般向け経済書といっても、ジャーナリストや評論家が書いたものを理解するために要求される知識水準と、(きわめて上から目線の、僭越な言い方になって申し訳ないけれども)ロゴフやラジャンが書いたものの「意味と内容をすべて理解」するために要求される知識水準は全く違う。いくら優秀なプロの翻訳家であっても、同時に経済学の現代的な内容にも精通しているといった超人は稀にしかいないであろう。
こうしたことに無自覚なまま、一般向け経済書だからといって翻訳が行われると、悲惨なことになる。例えば、原文ではhard factsとjudgement callsを対比する議論が展開されているときに、前者が単に「事実」としか訳されておらず、訳文では無造作に”hard”という形容詞が無視されているのをみると、経済学者としてはまことに残念で、原著の価値が減じられていると感じざるを得ない(注)。もっとも本当に悲惨なのは、プロの翻訳家が訳したからといって、こうした欠陥が気づかれていないことである。たとえプロの翻訳家でも、専門知識を持たない限りは、hardなど、中1でも知っている月並みな単語に過ぎないとして見過ごしてしまいがちである。
(注)ここでのhardは、定量化されていて、数字で示せるといった意味で、judgement callsは、定量的に数字で確証したりはできないけれども、個人的には確信があること、即ち、心証といった感じ。
一般読者向けの経済書であっても、第一級の経済学者が書いたものを訳す場合には、プロの翻訳家以外に、少なくとも「専門研究に充てる時間を削って」手伝ってくれる経済学者を確保する必要があることを、出版社の編集者の皆さんには理解しておいてほしいと思う。
コメント
まったくその通りですよね。
一般の人が読む小説や思想書であれば、一流の学者が精魂込めて訳すのが当然とされているのに、経済書やビジネス書だと、下訳屋さんみたいな人が突貫工事でやらされて当然、ってなんか変ですね。
ただ、難しいのは、それこそプラトンの新訳だったら訳すのに5年くらいかけても何の問題もないわけで、ゼミで輪読しながら慎重に作業できるでしょうが、来年あたりに「この本は金融危機を予言したと評判だった本」なんてのが出てきても。
一流の経済学者に、今やってる研究を一休みして、不眠不休で翻訳作業をやらせるというのはなかなか望み薄ですよね。
個人的には、先生のご指摘のようなことは重々認識しているので、経済やビジネスの話題の本は、原書を見ます。幸い、ほとんどが英語ですからねえ。
例えば、レコードを買う時、店員のオススメみたいなものは、あまりあてにしません。よほどの信頼関係がないとすんなり買いません。日本で出版された音楽雑誌もよほどの雑誌でないと読みません。レコードのcreditを見て買います。レコードのcreditをレコードショップで当時は携帯もない時代だったんで、読める単語を拾いながら理解を深めていきました。
ケインズもマルクスも原書は何冊もあると聞きます。余程の英語力が付くのではないでしょうか? 本気で取り組む気があるなら、原書を読むべきです。
英語の論文を読んだ時、驚愕しました。あまりに簡単なんで。日本で出された博士論文や経済書は複雑過ぎて読めません。
そして、2人ほど挙げられるのですが、後書きの陳腐さ。本気で理解して書いているのか。
学会の改善を求めるところです。
フランス帰りの内の親戚(准教授)と、リチャード・クー(多分同じ学派のもう少し複雑バージョン)の本にそっくりな植草さんのハナシです♪