大震災による深刻なダメージを受けている日本経済であるが、それを取り巻く外的要因の1つである「資源高」の傾向は震災前と変わらず続いており、その影響についても無視したり、忘れてしまうわけにはいかない。資源高、すなわち資源価格の上昇は、原材料費の高騰につながるコストアップ要因である。そこで、ものの価格をその費用面から改めて考えてみることにしよう。
なお、今回の議論は、先回の議論を若干敷衍し、東日本大震災の発生を踏まえて補足したものである。
価格を費用面から見ると、生産物1単位あたりの(労働コスト+非労働コスト[原材料費等]+利潤)からなるとみなせる。このうちの(非労働コスト+利潤)の労働コストに対する比率をγと定義すると、価格=(1+γ)×単位労働コストだといえる。このγのことを一般に「マークアップ率」と呼んだりしている。
時間あたりの賃金をw、労働投入量(のべ時間)をL、生産量をYとすると、wL/Yが単位労働コスト(unit labor cost)だということになる。この単位労働コストwL/Yは、中学レベルの数学の知識から、w/(Y/L)と書き換えられることがわかる。ここでのY/Lは、労働1時間あたりの生産量ということになるので、「労働生産性」を表している。すなわち、単位労働コストは、時間あたりの賃金を労働生産性で除したものにほかならない。よって、
価格=(1+γ)×時間あたりの賃金÷労働生産性 (1)
である。
したがって、マークアップ率が一定だと考えられる場合には、時間あたりの賃金の上昇率が労働生産性の上昇率を上回るときには価格は上昇し(マクロ全体でそうであれば、インフレになり)、下回るときには価格は下落する(マクロ全体でそうであれば、デフレになる)といえる。この間の日本経済の場合には、時間あたりの賃金がほとんど変化しない中で、緩やかな労働生産性の持続的上昇があり、その分だけ、緩やかな物価の下落が続いていたとみられる(より厳密には、後述のマークアップ率の変化の影響を考慮する必要がある)。
なお、上の(1)式は、
時間あたりの賃金÷価格=労働生産性÷(1+γ) (2)
と変形できる。この(2)式の左辺の(時間あたりの賃金÷価格)は、実質賃金率と呼ばれるものである。それゆえ、マークアップ率が一定だと考えられる場合には、労働生産性が上昇している限り、価格が上昇していようと下落していようとに関わらず、実質賃金率は上昇しているはずだといえることになる。
しかし、マークアップ率は常に一定であるとは限らない。分配率(労働コストと利潤の比率)は変動しうるし、まさに資源価格の上昇は、非労働コストの労働コストに対する比率を高めるものとなる。そこで、資源価格の上昇の結果として原材料費が高騰し、γが上昇したとしよう。すると、(2)式から、γの上昇を労働生産性の上昇でキャンセルアウトできない限り、実質賃金率は低下せざるを得ないことがわかる。この意味で、先回述べたように、資源価格が上昇すると、われわれは実質的に貧しくなることになる。(注)
(注)今後、発電をより火力に頼ることになり、石油や天然ガスの使用量が増加することになると、それらの国際価格は騰勢を強めているので、実質的な所得減少効果はいっそう大きくなるものと見込まれる。
このときに、貧しくなることを拒んで(実質賃金率の低下を回避しようとして)時間あたり賃金の引き上げが行われると、コストアップからさらに価格が上昇することになる。この価格上昇による実質賃金率の再びの低下を挽回するために、再びの賃上げが行われると、また価格が上昇することになる・・・。この繰り返しが、コストプッシュ(cost push)インフレーションの過程にほかならない。
要するに、資源価格の上昇による実質所得の低下が生じているときに、率直に実質所得の低下を受け入れる、あるいは労働生産性の改善によって挽回を期すという対応が行われるのであれば、コストプッシュ型のインフレーション(従って、スタグフレーション)はあり得ない。しかし、素直に実質所得の低下を受け入れようとはせず、賃上げが実行されるならば、そうした事態もあり得るということになる。
現在の需給状況においては、実質賃金率を維持するためであっても、賃上げを実現することはきわめて困難であろうと推察される。必ずしも「率直に」ではなくて、「否応なしに」であるとしても、われわれは資源価格の上昇による実質所得の低下を受け入れるしかない。それゆえ、身の回りの価格は若干上昇するが、賃金は基本的に上がることはなく、実質的には多少貧しくなるが、本格的なインフレを懸念する必要はない。この点の判断は、震災後も当面については、震災前の先回と同様である。
今次の震災においては、サプライチェーンの寸断や電力不足によって、供給能力も大きく毀損されている。しかし、震災の直後は、生産の落ち込みよりも支出(消費と投資)を手控える動きの方が大きく、需給状況はタイト化するどころか、より緩和することも考えられる。問題は、復興需要が本格化した後である。復興需要が本格化した以降の需給状況は、足下のそれとはかなり異なってくることが考えられ、そうなると判断を変更しなければならなくなる可能性はある。
もっとも、復興需要が本格化するまでには、阪神淡路大震災の時よりもかなり時間を要しそうである。というのは、1つには政府の動きが鈍いからであり、もう1つには、津波による被害を受けた地域にそのまま住宅等を再建するわけにはいかないので、新たな町作り計画とそれに伴う権利関係の整理等(の時間を要する作業)が必要だからである。(注)したがって、それまでに供給能力もかなり修復されているかもしれない。いずれにせよ、判断の見直しが必要になるまでにも、まだしばらくの時間はあるということなる。
(注)この意味で私自身は、景気予測に関しては、今年の第2四半期(4-6月期)のみならず、第3四半期(7-9月期)についてもマイナス成長になるという「悲観派」の見通しに同意する。
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池尾 和人@kazikeo