やばいぞ日本(2)― 我々は何をすべきか?

北村 隆司

物事に失敗したり、行き詰まった時に人が良く使う「原点に戻ろう」と言う言葉の「原点」は、何かをしようとした時の、もともとの「意図」を指すのが通例です。

東日本大震災をきっかけに起こった福島第一原発事故で、日本の統治機構の不全が世界に知れ渡った今日ほど、統治の「原点に戻る」必要に迫られた時代はありません。


ところが、「日本辺境論」を書いた内田樹教授によりますと「理念に基付いて作られていない日本は、国家的危機に際会したときに『そもそも何のためにこの国をつくったのか』と言う問い(原点)に立ち帰れない」国だと言うのです。

とは言え、当事者である国民は評論家然として現状を見過ごす訳には参りません。憲法ですら賛否両論に分かれる日本ですが、異論が殆ど聞かれない第三章「国民の権利及び義務(第十条から第四十条)」を国家の「原点」と考えて厳格に施行すれば、日本が抱える多くの統治問題は大幅に改善されます。

日本の統治不全の原因は、憲法第十二条が求めた「国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と言う義務を果して来なかった国民の怠慢にあり、政治家や官僚だけの責任ではありません。

「逆立ち思考」と言う言葉がありますが、日本では「国民主権」の新憲法が発布されて半世紀以上を経た今日でも、天皇の官制大権を前提とした「官尊民碑」と言う「逆立ち思考」が正常と見做され、国民主権に沿った常識的思考の経験を持ちません。

その証拠に、官僚が日常生活から天然の恵みまで、文字通り森羅万象に亘って管理しても文句を言わない国民の、平和呆けぶりの実例を挙げて見ましょう。:

「美容師」と「理容師」が混じると危険だとする法律

日本では頭髪の刈り込み、顔そり等の方法により、容姿を整えることを「理容」と呼び、パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくする事を「美容」と分類し、仮にヘアカットだけを行う店舗であっても理容師と美容師は同じ店舗で仕事をしてはならない事になっており、いったん理容所として届け出た店舗は理容師のみを、いったん美容所として届け出た店舗では美容師のみを雇用しなければなりません。厚生省のお役人は真面目に理容師と美容師が混じると危険だと信じているようです。

「溶けて流れりゃみな同じ」は誤り

一昔前に流行った「お座敷小唄」に「富士の高嶺に振る雪も、京都先斗町に振る雪も、雪に変わりはないじゃなし 溶けて流れりゃみな同じ」と言う一節が有りましたが、官僚機構はこの歌詞には同意致しません。同じ水でも、一般河川や湖沼は国土交通省、農業用水は農水省、下水道は国土交通省、上水道は厚生労働省、発電用ダム水は経済産業省と夫々管轄が分かれ、それらの水が合流する地点の管理権を巡り、膨大な税金と労力をかけて熾烈な「水争い」を行っています。

この様な、吉本興業のネタになりそうな官僚社会の「冗談めいた本当の話」は政策研究大学院大学の福井秀夫教授が著した「官の詭弁学」(日本経済新聞)を読むと山のように出てきますが、冗談では済ませない非常識な「官尊民碑」の実例も多々あります。

「地方自治」は地方には出来ないとする論理

「自治」とは、「自分や自分たちに関することを自らの責任において処理すること」を意味しますが、日本には「自治を監督する」自治省(現総務省)と言うへんてこな役所があり、「今のレベルでは地方には任せられない」と官僚主権を誇示しています。

「超法規的処置」を官僚の一存に任せる「放置国家」日本

今度の災害では各国から医療部隊が声援に駆けつけて呉れました。これも「通常」なら医師法に違反する行為で、イスラエルなどは持ち込んだ医療機器を日本に寄付してくれましたが、厚生労働省の承認を得ていない医療機器の国内使用も違法行為になります。

処が、厚生労働省は「今回は緊急事態に相当する」として超法規的措置でこれ等の行為を認めると発表しました。「緊急事態」の定義もなしに、官僚の一存で超法規的措置を乱発できるとしたら、「2・26事件」も朝飯前で、クーデターがいつ起こるとも限りません。これは、官僚の民主主義への重大な挑戦と言えましょう。

泥棒が刑法を作る日本の制度

日本では行政法規の圧倒的多数が内閣提出法案(官僚作成法案)で、行政訴訟で被告人の立場になる人間(官僚)が、自分に有利になる許認可基準や価値観を全て盛り込んでしまうので、国民が行政訴訟を起しても殆ど勝てない仕組みが作られています。このからくりのお陰で、国民の権利を行使する行政訴訟は人口比でドイツの250分の1で、然も、勝訴率は10%にも達しません。
ここに挙げた官僚中心主義の多くは、憲法違反、少なくとも「国民主権」を謳う憲法の精神に違反しており、集団訴訟を起してでも抵抗すべきです。現状に異議がないのであれば、官僚や政治家を非難せず「官僚主権憲法」の発布に努力すべきです。

憲法を「建国の理念(Original Intent)」と考える米国では、最高栽判事には司法資格を求めません。その替り、上院での最高栽判事の承認審査では、厳しい理念審査が行われ、ボーグ判事の様に法律家としては誰もが認める優秀な人材でも、建国の理念に反する思想の持ち主と見做されると判事として承認されません。

米国に比べると、日本国民の最高栽に関する知識と関心は極めて限られ、憲法を法律と考える日本で最高裁判事に司法資格を求めない不思議を知る国民はごく稀です。碌な資格審査もなく、最高裁事務局の推薦通りに任命される事を悪用して、最高裁判事を厚生労働省や外務省の司法資格を持たない官僚の天下り指定席にするなどもっての他です。

形骸化した最高裁裁判官の国民審査でさえ、在外邦人の投票権を認めない事は憲法に違反するとして日本政府を相手に起こした訴訟に、私も三人の原告の一人として参加しました。

この訴訟は、四月二十六日の判決で棄却されましたが、判決文は「最高裁裁判官の罷免権である審査権は、国民固有の権利として憲法が保障する事を認め、立法の不作為で国民が審査権を行使することができない事態を生じさせているのは、憲法上、重大な疑義がある」と指摘し、理念上は原告の正当性を認めるものでした。

原告の敗訴を報じた報道機関も、一致して行政と立法の怠慢を批判し、形骸化した裁判官国民審査制度の改正を求めています。形式的には敗訴でも、理念上の勝利に導けたのは升永 英俊弁護士の献身的なご努力を得て初めて可能になったのですが、私がこの訴訟に参加した理由は、憲法第十二条が求める「憲法を守る為の国民の義務」の一つだと思ったからです。

震災の被災者の事を思うと、惨劇からの物理的復興は全てに優先して取り組むべきだとは思いますが、五百旗頭真教授を始め立派な歴史家、思想家、政治・経済学者が名を連ねる東日本復興構想会議で、主権在民の統治理念のあり方が審議されない事は残念です。大正デモクラシーが関東大震災によって忘れ去られた様に、今回も原発事故で明らかになった日本の統治不全が忘れられるのでは?と言う不安が頭をよぎりました。

米国で二人目の女性最高栽判事に就任したギンズバーグ判事が「”We the People” と言う美しい3文字から始まる我が国憲法の “We” に、私達女性が仲間入りするには憲法発布以来100年を要し、黒人が の仲間入りするには更に100年を要した歴史を忘れてはなりません」と言う言葉で始めた講演を聞き、米国の人権運動の息の永さに衝動に似た感銘を受けた事を覚えています。日本人も国家的な危機に際会した今こそ、憲法に定められた国民の権利と義務を真面目に履行する事が、今回の様な統治不全による人災の再来を防ぐ為の国民の義務ではないでしょうか?