財源論

小幡 績

しかし、菅首相はともかくすべての経済学者やいわゆるエコノミストは頭が悪いのではなかろうか。

復興費用について、財源論を行っている。国債では先送りで、財政破綻懸念が生じる。だから消費税。いや、今、そんなことをしたら景気が悪くなる。だから、もちろん国債。さらにそれを日銀に引き受けさせて、インフレになれば、一石二鳥。

いや、良識的なポピュリストは、税は厳しいから、今後の増税スキームを議論しつつ、国債発行。そして、国債の暴落懸念から、財政規律をはっきりさせるために、復興債という形にして、ほかの国債とは別に償還を短期にするなどと議論。これはきわめてまっとうだが、そんなにまっとうな議論をこの危機にするなら、普段からしてほしい。

なぜ、復興のときだけ、財源論をするのか。

いや今からでも間に合うか。財源論、いや財政論をするか。


一番おかしいのは、これまでの国債および国債市場である。

国債市場は、買い手のひずみであるが、まもなく買い手は力尽きるから、このひずみは解消され、リスクに見合った価格となるであろう。

問題は、制度である。

財務省は、財政規律を保つのに全力を上げているはずだが、明らかな制度上の矛盾がある。

それはいわゆる建設国債と特例国債(赤字国債)の区別である。かつては、この区別は厳密だったが、政治的な圧力により、国債発行額が急増するステージごとに、この区別の堀はひとつずつ埋められていった。

いまや、補正予算や景気刺激策と打ち出される財政出動においても、裏に公共事業など、投資と呼べる資産への支出のある場合の建設国債と特例国債との区別は形式的になってしまった。国会で特例国債は毎年決議しなければならない、という点が最後に残された違いである(これは重要ではあるが)。

しかし、一般には知られていない(知っていなければならない)逸脱は、国債の償還ルールにおける建設国債と特例国債の違いである。

改めて述べると、建設国債の場合は、10年国債であっても償還は60年償還ルールとなっている。つまり、建設国債により調達された資金は、道路など経済や社会において公共的な資産になるものへの支出となるから、単にカネをばら撒くのではなく、資産が残る。だから、償却、つまり返済も長期にゆっくりでいいのではないか、ということで、10年満期で発行しても、借り換えが認められており、償還は60年とされている。60年とは、多くの公共事業により作られたものの寿命の平均にあわせたものだ。

一方、当然、特例国債(赤字国債)は、毎年の経費を借金で手当てしたものだから、その年に消費してしまうものである。だから、当初は借り換えは当然認められていなかった。しかし、昭和60年以降は、借り換えが行われるようになり、償還も建設国債と同じ60年ルールが適用されている。借り換えもおかしいが、それを60年という建設国債と同じにするとは妥協としては度が過ぎている。

この矛盾は、昔私が大学を出るころはクラスメイトのほぼ全員が知っていたが、今の有識者たちは、知らないふりをしているようだ。

知らなかろうが、ふりだろうが、どちらでもいいのだが、少なくとも、復興財源について、厳密な償還財源を求めるのはおかしい。1000年に一度の危機で、東日本を復旧ではなく、抜本的に復興させるための支出であるから、以前私が提案(東日本復興開発銀行)したように、100年償還でいいはずだ。

むしろ、しっかり財源を確保すべきは、特例国債のほうであり、復興債に借り換えを認めないなら、特例国債の借り換えを禁止するほうが先だ。

つまり、今国会で成立しないと国が破綻すると騒いでいる特例公債法案は国会で否決すべきなのだ。復興財源の確保における財政規律の議論よりも遥かに優先させるべきだ。

本気で財政再建を考えるのであれば。

だから、やっぱり東京の人々は、復興をネタに自分に都合のよい議論をしているだけなのだ。この機に乗じて。

菅、橋下と経済学者は同じようなものなのだ。