「勝利」を「奇跡」とよぶ国民性(終戦の日に寄せて)

矢澤 豊

周回遅れの話題だが、ご寛恕いただきたい。


サッカー女子ワールドカップにおける日本チーム、「なでしこジャパン」の優勝には、久しぶりに心が震えた。

決勝戦、延長後半。勝負をPKに持ち込んだ澤選手の二点目のシーンを見返すたびに、澤選手のガッツポーズ、チームメイトの歓喜、そして選手たちを見守る佐々木監督の真っ赤な目に心が熱くなるのと同時に、いったいぜんたい、あの状況で、コーナーキックをアウトサイドで合わせて、あのアングルでねじ込むとは、どれだけスゴイ選手なのか...と、考えただけで気が遠くなる。

しかしあの優勝を「奇跡」とよんだ、ニッポンのメディアの感覚には違和感を覚えた。

違和感というより、「怒り」に近い。

「奇跡」とは、努力したものだけが口にできる「謙遜」の言葉だ。

第三者が、事後にノコノコやってきて、人の偉業を称して使うべき言葉ではないだろう。

私はこの「奇跡」という言葉の使い方に、ニッポンのメディアの「卑屈」が凝縮されているような気がしてならない。

優勝を「奇跡」と呼び、その栄光を矮小化し、自らの身の丈レベルまでダウンサイズする。

この機会を「女子サッカーの普及につなげたい」というサッカー協会と、個々の選手の善意を逆手にとり、ワイドショー記者が選手を追い回し、バカな質問を浴びせかけ、プチ・スキャンダルを演出し、テレビに「出させてやっている」という態度をとる。

もちろん、今回、この「国民的」勝利に際して、読み応えのあるスポーツ・ジャーナリズムをモノにしたスポーツ記者、ライターの皆さんがおられることは、知っている。女子サッカー「なでしこリーグ」も、大人気を博しており、草の根レベルで女子サッカーを日本に根付かせようという気運が高まっていることも、聞いている。

しかし「ニッポン」という国の大半の人々は、ワールドカップの後、所属チームの練習に合流した選手に向かい、

「結婚の予定は~?」

と、声を張り上げた、バカで失礼なテレビ番組を、「微笑ましい」とカンチガイし、これに洗脳され、地上波テレビに代表されるニッポンのメディアが敷いた、「白癡化」へのベルトコンベイヤーにのせられていることに気がついていないのだろうか。

勝負の時だけ「奇跡」を望む国民性。

無作為の「勝利」を尊ぶ国民性。

それは要するに「無責任」ということだ。

この「無責任」な国民性の地下茎は、2年前の

「政権交代(さえ)すればニッポンはよくなる」

といった風潮。そして今現在、野田財務大臣を中心に進行中と聞き及ぶ

「必要なのは救国の大連立」

という、政策議論不在の政局論調につながっている。

66年前。こうした「無責任」な国民性は、300万もの戦争犠牲者をうみだし、14,000余の有為の若者を「特攻」という死に追いやった。

「神風」という「奇跡」を望んだ「無責任」。

66年という年月を経て、我々は単なる「批判」から、「自省」へと、成長できているのだろうか。

「...神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を褫ふ。

古人曰く勝て兜の緒を締めよと。」

明治38年12月21日 連合艦隊司令長官 東郷平八郎「連合艦隊解散の辞」

オマケ
日本女子チームがPK戦の末にねじ伏せた、アメリカ女子チームのワールドカップ直前のプロモ映像。

「金メダルを持って帰る」

あたりまえに「優勝」を目指し、その「優勝」という目標にむけて、あたりまえに努力をかさねる。

そこに、「勝ってあたりまえ」の強さが生まれてくる。

日本の目標は、この「あたりまえ」の強さを、自らのものとすることだ。