きょうは8月15日である。この日に、いつも日本人が自問するのは「日本はなぜあんな勝てない戦争に突っ込んだのだろうか」という問いだろう。これにはいろいろな答があるが、一つは東條英機を初めとする陸軍が日本の戦力を過大評価したことである。陸海軍の総力戦研究所が「補給能力は2年程度しかもたない」と報告したのに対して、東條陸相は「日露戦争は勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからん」とこれを一蹴した。
こういう客観情勢を無視して「大和魂」さえあれば何とかなると考える主観主義は、日本の伝統らしい。朝日新聞の大野博人氏(オピニオン編集長)は8月7日の記事でこう書いている:
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。原発をやめる場合、再生可能エネルギーには取って代わる力があるか。コストは抑えられるか。 [・・・]これらの問いへの答えが「否」であれば、「やめることはできないから、やめるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。
私はこの記事を読んだとき、東條を思い出した。ここで「脱原発」を「日米開戦」に置き換えれば、こうなる。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。戦争をする場合、米国に勝てる戦力・補給力があるか・・・これらの問いへの答えが「否」であれば、「勝つことはできないから、戦争はやるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし戦争について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで鬼畜米英を放置すべきだということではないか。まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。大東亜戦争は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。
朝日新聞は、おそらくこれと似たような社説を70年前の12月8日の前にも書いたのだろう。それがどういう結果になったかは、いうまでもない。河野太郎氏も、私の「再生可能エネルギー100%というのは技術的に無理ですよ」という質問に対して「できるかどうかだけ考えていたら何もできない。まず目標を掲げれば、不可能も可能になるんです」と語っていた。
この「東條の論理」には、二つの欠陥がある。まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始めるということだ。これは当然、どこかで「やっぱりだめだ」という判断と撤退を必要とする。その判断ができないと、かつての戦争のような取り返しのつかないことになるが、撤退は誰が判断するのか。また失敗による損害に朝日新聞は責任を負うのか。
もう一つの欠陥は、実現可能なオプションを考えないということだ。最初からできるかどうか考えないで「悪い」原発を征伐するという発想だから、その代案は「正しい」再生可能エネルギーという二者択一しかなく、天然ガスのほうが現実的ではないかといった選択肢は眼中にない。
朝日新聞は、かつて対米開戦の「空気」を作り出した「A級戦犯」ともいうべきメディアである。「軍部の検閲で自由な言論が抑圧された」などというのは嘘で、勇ましいことを書かないと新聞が売れないから戦争をあおったのだ。今回も世論に迎合し、脱原発ができるかどうか考えないで勇ましい旗を振るその姿は、日本のジャーナリズムが70年たっても何も進歩していないことを物語っている。