イノベーションの指揮者としてのスティーブ・ジョブス

大西 宏

スティーブ・ジョブス、あるいはアップルがなにか新しい技術イノベーションを起こしたかというときっとノーだといえます。しかしつぎつぎに新しいコンセプトを生み出し、さまざまな新しい技術を組み合わせ、それらを洗練されたデザインで製品に仕上げて、人々に驚きと感動、新しい体験を創りだしてきた偉業を否定することは誰にもできません。イノベーションとはなにか、それはたんに技術だけの問題ではないこと、人々の生活や社会のありかたを変えてこそイノベーションといえることをまさに示したのがスティーブ・ジョブスだったと思います。


iMacがでてきたときは、Macは使わなくなっていたので、アップルが個性的になったという印象しか受けませんでしたが、iPodがでてきたときには正直言って衝撃を受けました。技術にではありません。技術を洗練されたコンセプトに置き換え、またカタチにしたことにでした。iPodの製品概念は決して新しいアイデアではありません。すでにMP3プレイヤーがあり、それこそ普及初期のハードルであるキャズムを越えることもできないままに、ニッチな小さい市場で雨後の筍のようにさまざまな製品が登場し乱立していた時代でした。
オンラインによる音楽配信でも、さまざまな数多くのベンチャー企業がすでに登場していました。たまたまクライアントにロスであった音楽配信のフォーラムに行かせてもらったのですが、その当時日本から来ていたのはSONYさんと東京エフエムさんと私たちだけでしたが、その会場の熱気に圧倒された思い出があります。iPhoneもそうです。スマートフォンはすでに先発企業がありました。しかし、そういったイノベーションを本格的に普及させたのはいずれもスティーブ・ジョブスだったのです。

ジョブスがやったことは、技術が好きな人たち、デザインが好きな人たちではなく、ターゲットを変え、さらに広げたことではなかったと感じます。普通の若い人たちが共感し、感動し、受け容れるコンセプトや仕様、またデザインに塗り変えたことです。
デジタル・オーディオ・プレイヤーへの参入が遅れ、ウォークマンのシェアをiPodに侵食されてきていたSONYがウォークマン誕生25周年で、デジタル・ウォークマンを発表し、一年でiPodを追い抜くと高らかに宣言しますが、その本質をわかっていなかったのか、機能と仕様を強調するだけに終わり失敗しています。

スティーブ・ジョブスが未来が見えるビジョナリストだという評価をする人がいますが、なにか違うように感じます。ジョブスに未来を見通す才能があったかどうかはわかりません。ただ、今日の数々の技術革新や情報通信の進展が取りこぼしたものがなにかを見破る力はあったことは否定できません。

そして、見出した発想を実現する力が天才的だったということでしょう。すでに世の中にあるイノベーション、アップルの技術者が生み出してくる技術アイデアを選択し、組み合わせ、いかにユーザーにとって価値あるものにするかへのこだわりが普通ではありませんでした。製品の隠された見えない部分にもデザインを求めたことには驚かされます。

ジョブスはこう語っていました。

(イノベーションは)1000ものことにノーと言う必要があります。
集中するとかピントを合わせるとかいうのは、集中すべき案件にイエスと言うことだと思われるのが普通です。それは大きなまちがいです。集中すべき案件ではない、100種類もの優れたアイデアにノーと言うことなのです。

ジョブスがユーザーの心地よい体験、感動を提供する目的に向かって集中し、技術を選択し、おびただしいダメだしを通して完成させていく姿勢は、音楽家のレナード・バーンスタインとイメージが重なって見えてきます。以前ドキュメンタリーで、ウェストサイド物語の録音場面を見たことがあります。たしか曲は「マリア」だったと思いますが、テノール歌手としては押しも押されぬ実力者のホセ・カレーラスに、バーンスタインが幾度も幾度もダメ出しをしていたシーンを思い出します。このふたりのやり取りの醍醐味のあるシーンは、プロフェッショナルの条件とはなにかを象徴しているようにも感じます。

その目的の実現に向けてはビジネスでも妥協をしなかったジョブスですが、ジョブスから学ぶべきことは多く、しかも、ジョブス流は、ものづくりにこだわってきた日本の企業にもフィットしているようにも感じます。
ただ、そのためにはなにが新しい技術か、ライバルよりも新しい特徴をつくり差別化するというマーケティングから、さきに触れたように、どうすればユーザーの感じる価値、ユーザーの体験できる価値を最大化するという発想への切り替えが必要だと感じます。ライバルは、競争しあっている同業者ではなく、ユーザーなのだという視点を持てば、日本の企業にも多くのチャンスがあるはずです。
ジョブスはウォークマンを生み出したSONYの遺伝子をもっとも引き継いだ人だったと思いますが、日本からジョブスの遺伝子を引き継ぐ企業が生まれてくることを期待します。