R・ラジャンが、その著書『大断層(Fault Lines)』(この本がまともな日本語訳で提供されなかったのは、大変に不幸なことである)の中で、世界に危機をもたらしかねない断層線の第1にあげているのは、「米国における所得格差の拡大」である。
日本経済新聞に同書の書評を書いたことがあるので、そのときの文章を引用すると、
著者のラジャンによれば、なかでも大きな断層線は、米国における所得格差の拡大である。技術革新が所得格差の拡大につながっている面があり、その是正のためには、変化に対応できる人的資本の形成を促す教育の拡充が求められる。しかし、教育による問題解決には長い時間を要する。米国では雇用保障や各種のセーフティネットが乏しいことから、政治家は時間をかけていられず、即効的な対策を求める。
その即効的な対策が、低所得層への優遇的な信用供与を増大させることである。とくに住宅関連での信用供与の増大によって、住宅価格の上昇が起きれば、住宅価格の上昇益によって低所得者層の消費拡大が可能になり、格差に対する不満をやわらげることができる。こうした政府の政策が、まさに今回の住宅価格バブルの根源になったとされる。
ということである。
しかし、断層線はこれだけではない。ラジャンが第2にあげているのは、少なくない数の国々が「輸出主導型の(政府管理型の)経済発展路線」をとるようになっていることである。後発国にとって輸出主導型の経済発展路線が有効であることは、まさにわが国の「成功」が世界に示したところである。それをみた韓国・中国をはじめとした東アジア諸国やラテン・アメリカの諸国が近年は輸出主導型の経済発展路線を採用するようになり、日本とドイツは依然として同路線をとっている。
ところが、世界のすべての国が輸出主導型の経済発展路線をとることはできない。世界中の国々の経常収支(純輸出)の合計は定義的にゼロとならなければならない(もっとも、実際の統計では脱漏・誤差のせいで赤字になるのが通例)。したがって、経常収支(純輸出)がプラスの国々が存在すれば、他方に経常収支(純輸出)がマイナスの国々が存在していなければならない。換言すると、輸出主導型の経済発展路線は、それが可能になるためには必ず相手方を必要とする。
その必要になる相手方とは、経常収支の赤字を出して、輸出する以上に財・サービスを輸入してくれる国である。2007-09年の世界金融危機の前には、米国が全世界を相手にそうした役割を果たしていた。米国が経常収支の赤字を出すことができたのは、海外から資金が調達できたからであり、その資金の貸し手は、他ならぬ輸出主導型の経済発展路線をとる経常収支黒字国(すなわち、日本や中国など)であった。
金融危機前には米国は経常収支の赤字を垂れ流していることを非難する声が日本では多かった。しかし、リーマン・ショックを機に、米国がいわば「最後の買い手」および「最後の借り手」として行動することを止めざるを得なくなると、日本の輸出に対する需要はあたかも「蒸発」したかのごとく減少し、日本の経済活動は著しく落ち込むことになってしまった。実は、日本は米国市場に依存していたのであり、米国を一方的に非難できる立場にはなかったのである。
このように経常収支の不均衡が非常に拡大した状態を一般に「グローバル・インバランス(Global Imbalance)」と呼んでいる。日本は(もちろん中国も)、輸出主導型の経済発展路線をとることによってグローバル・インバランスを作り出してきた一方の当事者であることに自覚的でなければならない。米国はもう一方の当事者であるけれども、片方の当事者にだけ100%の責任があるということには普通はならない。
グローバル・インバランスと相似的な構造は、実は欧州の内部にも存在していた。すなわち、ドイツの輸出主導型経済発展路線を支えた相手方は、米国というよりも、実はギリシアをはじめとした南欧諸国であった(EU全体としての対米経常収支はほぼバランスしている)。南欧諸国は借り入れを行うことによって、ドイツの輸出する財・サービスを購入していたのである。そうした南欧諸国の需要があったがゆえに、ドイツ経済の好調さが維持されてきた。
南欧諸国に資金を貸し付けていたのは、ドイツなどの金融機関である。経常収支黒字国がファイナンス付きで経常収支赤字国に財・サービスを売りつけるというグローバル・インバランスとまさに相似的な構造になっていた。そして、グローバル・インバランスが世界金融危機につながったのと同様に、この欧州版インバランス(Euro Imbalance)が今回の欧州の信用不安につながったとみることができる。
このように考えると、ドイツは自らをアリにたとえ、ギリシアをキリギリスだといって一方的に非難していられる立場にはないとみられる。むしろ、成熟した先進国になっているにもかかわらず、輸出主導型の経済発展路線から脱却できていない(それゆえ、世界に不均衡を作り出す原因となっている可能性のある)ことを、ドイツは(そして日本も)反省してみなければならない。
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池尾 和人@kazikeo