「法の下での平等」は何処に?-冤罪事件の国家賠償と、琴光喜事件判決での疑問

北村 隆司

郵政不正冤罪事件で164日間も勾留され、4回目の保釈請求でようやく保釈された村木厚子・元厚生労働省局長は、「精神的苦痛を受けた」として国に賠償を求め、国側は責任を全面的に認めて3770万円を賠償する事で決着した。


一方、同じ冤罪でも足利事件の場合は、逮捕から18年3カ月、拘束期間も6395日(17年半)にも及びながら、国家の賠償金額は、刑事訴訟法での上限一杯でも約8000万円でしかなかった。

冤罪被害者にとって、国家賠償の金額の多寡は2次的な問題であるかもしれないが、164日の不当勾留で3770万円に対し、6395日の刑務所暮らしの賠償金が8000万円では、余りにも差が有りすぎる。年金も当てにできない菅谷さんと今後の活躍が期待される村木さんとの差を考えると尚更である。

法の下に平等の原則に反し、何か身分上の差別を感じる判決は沢山ある。例えば、「野球賭博の口止め料」だとして琴光喜から現金350万円を脅し取った上、さらに1億円を取ろうとした罪で起訴された古市被告は、懲役4年6か月の実刑判決を受けたのに対し、小沢氏の秘書に対する判決では、「4億円を隠蔽するため、故意に虚偽記載したことは明白」で、水谷建設からの1億円の裏献金についても有罪を認めながら、判決は何れも執行猶予付きであったのはその典型であろう。

小沢氏の秘書の有罪判決には「…と見るのが自然で合理的だ」とか「合理的に推認できる」など、推論が多用されていると言う批判が巻き起こったが、琴光喜事件での古市被告も罪状を全面否定したにも関わらず、裁判長は「弁解は不自然で信用できない」として有罪判決を下した。にも関わらず、識者からは小沢秘書判決の時のような、推論に頼る判決は危険と言うコメントは全く聞かれなかった。

これは, 理屈上は法の下での平等の原則は知っていても、実際にはも何となく身分差を認めてしまう日本国民の価値観も無視出来ない要素である。又、専門家にお任せして「大岡裁き」を期待する日本の国民性と、飽くまで個々の具体的な事実に基付いて決定する欧米の文化の違いも多いに影響しているに違いない。

米国の憲法は人間の不完全さと弱さを前提に作られて居り、裁判官へのお任せはご法度が原則である。米国の司法制度は、ヘルシーフッドのメニューが食材毎にカロリーの範囲を記しているように、量刑は裁判家の裁量に頼らず、予め法律で定められた罪状ごとの刑罰に従い量刑が決められる仕組みになっている。

それだけではない。3審制を採用して居る事は米国も同様であるが、国民の権利の保障と法の下に平等の思想は、全面可視化に限らず随所に疑わしきは罰せずの配慮が行き届き、検事当局が圧倒的に優位な刑事では、検事側が一審で敗訴した場合は、一般に上告を認められていない事を知る日本人は少ない。

我が国の憲法第14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と国民の「法の下での平等」を保障しているが、身分の異なる被告人が、同じ様な内容の罪状で起訴されて受けた判決を比較する度に、日本の「法の下での平等」お題目に過ぎない様に見えてならない。