「官僚」が「公務員」になるとき

池田 信夫

田原総一朗さんのBOOKセミナーの予習で、本書を読んだ。印象的なのは、これが書かれた1970年代には、官僚が政策を決定する主体として堂々と発言していることだ。「政治主導」などという言葉もなかった時代だから、彼らは霞ヶ関が実質的な立法府であることを隠す必要もなかったのだろう。

私の父は京都の地方公務員だったので、東大に入ったとき、まわりの学生がみんな公務員志望なのに違和感を覚えた。私の知っている公務員は毎日5時過ぎに帰ってくる単調な仕事で、それほど魅力のある職業とは思えなかったからだ。しかし霞ヶ関の「官僚」は、京都市役所の「公務員」とは違うらしいということが次第にわかってきた。


官僚を志望する動機は「仕事がおもしろいから」という友人が多かった。企業に入っても、しょせん利潤追求しかできないが、官僚なら国を動かせる――そういう純粋な動機で官僚を志望していたのだ。役所の仕事が「おもしろい」という感覚が私にはわからなかったが、いま思うと私のイメージのほうが国際標準だった。

よく留学から帰ってきた官僚が「海外でbureaucratと自己紹介すると、軽蔑されるのでショックを受けた」というが、私にいわせれば海外に行かないとそれに気づかないほうがおかしい。日本のように官僚が実質的に立法機能までもっている国は、先進国にはほとんどないのだ。特に英米では、中央官庁の幹部公務員は政治任用で、生え抜きの公務員が大きな意思決定を行なうチャンスは少ない。

つまり日本の官僚は西洋的な「公僕」ではなく、儒教的な士大夫であり、法律をつくるだけではなく、天下国家を論じて民間を指導する「最高の知識人」なのである。彼らは大学の教師を必ず「先生」と呼ぶが、内心は自分のほうが優秀だと思っている。事実、私のころまではそうだった。成績の一番いい学生は役所に行き、大学院に進学するのはその次のランクだった。

しかし今、日本が「普通の国」になるにつれて、中央官庁のキャリア官僚も私の父のような公務員に近づいてきたようにみえる。政治主導を掲げる民主党政権のもとでは、少なくとも建て前では彼らに服従しなければならない。東大経済学部の就職人気も、トップは外資系の投資銀行で、公務員の人気は銀行・商社より下だという。

これが世界の普通の公務員だが、それはいいことなのだろうか。もちろん政治家が本当のlegislatorとして機能してくれれば、官僚はその決定を執行するだけでいいのだが、日本の現状はそれにはほど遠い。自民党はもともと立法する気がなく、民主党にはその能力がない。このまま霞ヶ関からthe best and the brightestがいなくなったら、日本の政治はもっとひどいことになるのではないか――そんなことを田原さんや会場のみなさんと話し合ってみたい。