米国は「歴史の大転換」をもたらしうるか?

松本 徹三

人類の歴史は、多くの「愚かしさ」と若干の「叡智」で織り成されてきた。もし叡智が常に愚かしさを上回っていたら、大量の人が殺され、或いは辛酸を舐めさせられた先の大戦のような事は起こらなかっただろう。


ナチズムの台頭と彼等が引き起こした第二次世界大戦(遅れてきた植民地主義国の大日本帝国は「バスに乗り遅れまい」としてこれに巻き込まれた)は、元を質せば米国がモンロー主義を決め込み、第一次世界大戦で疲弊した欧州に十分な経済支援の手を差し伸べなかったからだと私は見ているが、これからの世界で彼等はどう立ち回ろうとするだろうか?

マルクスやエンゲルス、更にはレーニンやトロツキーなどが「唯物史観」に基づいて作り上げた「共産主義国」のソビエト連邦は、一時は米国との間で全面的な核戦争を引き起こしかねない程の強大な国になったが、この危機は辛うじて回避され、その一方で、経済体制としての共産主義は、「人間の勤労意欲」という本質的な問題を見誤った為に、現時点では世界的にほぼ崩壊している。(その結果として「東西冷戦」構造も解消した。)

一方、産業革命以降着実に進展してきた「技術革新」は、死亡率を飛躍的に低下させて人口を増大させる一方で、人間一人当たりの生産性を格段に押し上げた。「技術革新」と表裏一体となって動く「産業」と「経済」は、現在は世界中がほぼ資本主義の原則で動いており、国境を越えた貿易と投資の自由度も着実に増えつつある。

残念ながら「摩擦と対立」は今なお世界中に満ち溢れており、多くの「憎しみの連鎖」が日々流血を生み出しているが、その「摩擦と対立」の最大のものが宗教的な理由によるものである事を考えると、経済運営面では、人間の「叡智」は若干ながら「愚かしさ」を上回っているのかもしれないとも思える。

「汚職や腐敗のない民主主義体制の確立」に象徴されるような「政治的な成熟」は、経済に比べれば周回遅れの感は否めないが、それでも、韓国や台湾で見られたように、「全体主義体制が資本主義経済を上手く運営して、一旦広範な経済的な成功がもたらされると、全体主義は徐々に民主主義に移行していき、汚職や腐敗も減少していく」という傾向が見られている。(超大国「中国」は未だこの道半ばだが、やがては同じ道を辿るのではないかと私は思っている。)

しかし、本当にこのまま楽観していて良いのだろうか? 私はそうは思わない。「リーマンショック」から、最近の「ユーロ危機」へと続く一連の状況をつぶさに観察してみると、一時代を画した米国流の資本主義経済体制も、既に爛熟期に入って数々の深刻な問題を露呈し、大きな転換を行うべき時期にきているのではないかと思えてならない。

問題は、「金融資本主義」が一人歩きしはじめ、既に危険水域に足を踏み入れつつあるという事だ。その事を深く考えていけば、「金融資本主義」のこれ以上の拡大は人類の為にならず、むしろ「禍」をもたらすものとして排斥されるべきだという結論に達する。

そもそも、人間が必要としているのは、「モノ」と「サービス」であって、「金」はそれらのものを効率的に作り出し、流通させるための「道具」に過ぎない。それなのに、「金」の運用が生み出す利益は、「モノ」や「サービス」が生み出す利益より既に格段に大きなものになっている。そして、そのあまりの大きさ故に、常時「金」を扱っている人達にとっては、「モノ」や「サービス」が直接人間にもたらす価値などは、最早どうでもいいものになりつつあるようにさえ思える。

確かに、「金」(或いは、必要に応じそれを代替する「信用」)を動かす仕組が効率化すれば、あらゆる経済活動のスピードが加速され、経済をより一層活性化させるという効用はある。しかし、これが、最終的な「価値」である「モノ」や「サービス」を作るのに要する手間暇とあまりにかけ離れたものになると、それを扱う人間の感覚が麻痺し、金融取引が次第に実体経済と遊離していく恐れがある。

「モノ」や「サービス」は、最終的には人間に消費され、人間はその「価値」を実感するが、「金」はあくまで中間的なものだから、それ自体では「価値」を生み出さない。「金」で「モノ」を買った場合は、仮に割高で買った場合でも、買い手はその取引で目的を達成するが、純粋な金融取引の場合は、一方が利益を上げれば、一方は損失を蒙る。みんなが利益を上げたと喜んでいる場合は、いつかはみんなが大損をする。

最近は「強欲な金融資本」という言葉がしばしば使われるようになったが、どこかに「強欲」な爺さんが蹲っていて、闇の中で全てを支配しているのかといえば、そんな事はない。

日常の仕事は、現実には弁舌爽やかな若い人達が仕切っているのだ。「ここで見事な実績を挙げて、将来のキャリアーを築こう」と考えているのか、或いは「ここで鮮やかな手腕を発揮せねば、この世界からはじき出される」という強迫観念に駆られているかのどちらかだろう。彼等は、確かにしばしば「傲慢不遜」には見えるが、別に「強欲」であるわけではない。彼等が属している「組織」の「生理」が、「強欲」とも見える彼等の行動パターンを生み出しているに過ぎない。

これは何も金融会社や投資会社に限った事ではない。普通の会社の普通のサラリーマンの多くも、実は毎日この「組織の生理」に支配されて生きているのだ。多くの組織において、計画の基本は「前期比X%の伸び」「市場占有率X%達成」という事であり、組織の構成員は、その達成の為に毎日心血を注いでいる。仮に今期たまたま大きな利益が達成できたとしても、「来期は少しのんびりしてもらってもいいよ」等ということは誰も言ってくれない。来期の目標は必ず今期の実績を上回るレベルで設定される。

「市場原理」に基づくこのような「競争社会」の非人間的な側面に疲れて、「市場原理」や「競争社会」自体を否定したくなっている人達も結構いる。しかし、私はその立場はとらない。

先ず、世界中が一斉に「競争」を否定するのならよいが、そうでない場合は、「競争を否とする人達」も「競争を是とする人達」と世界市場で「競争」しなければならず、そうなると、惨めに敗北するのは目に見えている。それ以前に、「競争の否定」は必ず「生産性の低下」を招き、消費者の生活は、その分だけ惨めなものにならざるを得ない。この事は、残念ながら、既に「社会主義経済の失敗」という事実によって証明されてしまっている。

今、多くの人達が提唱しているのは、資本主義を否定する事でも、「人間の本性」や「組織の生理」を無視する事でもない。ただ「国際金融資本の活動に一定の規制をかける」という事だけなのだ。

「強欲はいけません」等という必要もない。一定の強制力を持った国際ルールについて各国が同意し、これを批准すると同時に、国内の税制等を若干手直しすれば済むだけの事だ。(現在の税制の再吟味は米国では特に必要だ。金融資本家に考えを変えてもらおうと思うなら、百のお説教よりも、単純な「税制の変更」の方がはるかに有効だからだ。)

先月、私はニューヨークで「ウォールストリートの占拠」なるものの実態を見てきたが、一昔前のヒッピーのような格好の人達がウォールストリートに近い公園の一角に屯しているだけで、同じ事が地方にも波及する事はあっても、全体として大きな力になり得るものとは思えなかった。しかし、この中で、「ウォールストリートがアメリカを占領してしまった。だから、我々はウールストリートを占領する」というキャッチフレーズだけは、明らかに多くの人の共感を呼ぶものだった。

公園の一角に屯している人達の中には、カストロの絵が描かれた赤旗をたて、「Class War Ahead(階級闘争は近い)」というスローガンを掲げている一群もいたが、「全国民の僅か1%の人々が米国の全ての経済の仕組みを決めているかのような現状は、著しく不公平だ」という言葉には多くの共感が得られても、「この1%の人々とその他の人々は異なった階級に属している」と考えるような人は皆無に近いだろう。

問題の核心は、多くの人達が共有している「現状は道理に合わぬ」という単純素朴な感覚の中にあり、「イデオロギー」などというものとは無縁のように思える。

私が言いたい事は唯一つ、「資本主義を守りたければ、自制が必要だ」という事だけだ。一部の人達の「無節制な利益の追求」を黙認すれば、多くの人達の怒りを誘引し、資本主義の持つ色々なメリットの否定にまで進んでしまう。これは「資本主義の自殺」だ。

私が言っているのは、これまでにも度々提唱されてきた一種の「修正資本主義」だが、「修正」すべきと言っている対象はずっと小さい。また、これは「市場原理主義」を否定するものではない。(「モノ」や「サービス」といった「実業」の分野においては、「市場原理」を徹底しても大きな問題は特に生じないと、私は考えている。)「これすら出来ないのなら、もうどうしようもない」とすら思う。

しかしながら、現実を見ると、米国では、共和党、民主党の別なく、金融資本の規制には慎重だ。何故そうなのかは、外国人の我々にはなかなか理解し難いが、「選挙に金がかかりすぎる民主主義の弱点」が、この背景にあるのではないかと私は疑っている。(そして、これには、金融資本家だけではなく、市場原理主義を信奉する実体経済の担い手も加担しているのではないかとも疑っている。)

昨今の米国におけるロビーストの跳梁には目を覆いたくなるものがあるが、そうでなくとも、選挙に勝たなければ何も出来ない政治家にとっては、「長期的な理想」を「短期的な得失」に優先させるのは、極めて難しい事なのだろう。しかし、それを乗り越えてこそ、初めて偉大な政治家として歴史に名を刻む事ができるのではないか? オバマ現大統領にはその意欲はないのか?

米国の政治に大きな影響力を持っているユダヤ人社会も、そろそろ危機感を持って、長期的な得失に目を向けたほうが良い。「強欲な金融資本主義」の失敗で世界経済が混乱し、その結果として貧富の差が拡大すれば、南北格差も同時に増幅される。そうなると、世界中で、若者達が「『破壊』の後でしか『理想』は実現できない」と叫ぶだろう。周囲をアラブ諸国に取り囲まれ、常にその安全を脅かされているイスラエルにとっては、このような不安定な状況は決して望ましいものではない筈だ。

何はともあれ、限度を超えて膨張しつつある「金融資本主義」を規制するルール作りに、米国政府が本気で取り組み、現在の不安定な状況に大転換をもたらすかどうかに、世界は注目している。そして、日本を含む世界の各国は、米国との種々の交渉の場において、常にこの事に関連するプレッシャーを、米国政府に対してかけ続けるべきだ。