サピア・ウォーフの仮説、再び。 --- 宮崎圭輔

アゴラ編集部

サピア・ウォーフの仮説は、大雑把に纏めると、人の思考において、言語を介さない思考はなく、使用する言語が違えば認識する世界観が違うという古い仮説である。

現代の認知神経科学から考えるとこの主張は間違っており、多くの実験・症例研究で視空間的推論などの言語を介さない思考、すなわち非言語的な認知処理の多くが認められている。人は言語・民族が違ってもほぼ変わらない脳機能を持ち、色盲や先天相貌失認などの認知障害がなければ、同じように音声・視覚・触覚の入力を受けて知覚を統合して、普遍的な世界を認識しているはずである。もちろん、あなたの見ている赤と自分の見ている赤は同じか? というような認識論的な主観への問いは別だが、脳⇔心に対する客体分析のレベルにおいてこれは異論がないだろう。


 当時、この仮説は興奮を持って迎えられたが裏付ける証拠も無く、1970年代時点では多くの学者がこの仮説に失望して、結局は人の思考と言語は普遍的であるという説が力を得るに従い、ガラクタのように見捨てられてしまった。

 だが近年、新たな光が当たっているようだ。

 オランダのマックス・プラング言語心理学研究所のレヴィンソンと、カリフォルニア大学サンディエゴ校のハビンドラ、スタンフォード大学のL・ボロツキー達はそれぞれ過去20年間に渡って言語の違いと、認知機能の差を研究し膨大な記録を残した。例えばその一つに『方位認知』と『出来事の記憶』の研究がある。

英語や日本語のような『上下左右』という相対方位ではなく、日常生活の中でも『東西南北』のような絶対方位で自分と他物の位置関係を示す話者を被験者に比較実験を行った。例えばポーンプラーウという小さなアボリジニの集落で使用されているクルル語話者は、北を指すように指示すると5歳児の子供でも場所関係なく指し示すことができる。だが相対方位言語を使用する圏内では、聡明な大人でもこの指示の実行は困難である。

もちろん英語・日本語話者でも広いスケールでは絶対方位を示す言葉を使うが、クルル語話者のような『彼らはディナーのフォークを南東に置いた』という言い方はしない。

またL・ボロツキー達は、日常風景の中で誰か偶発的に花瓶を割ったというような小さな出来事の風景ビデオを異なる言語使用者群の被験者に見せ、後で展開説明を求める課題を行った。偶発事象を述べるときに、動作主体を明確にする言語、例えば英語話者と、偶発事象を述べるときに動作主体をあまり明確にしない言語、例えば日本語・スペイン語話者の、それぞれの群で記憶成績を比較すると、英語話者群と日本語・スペイン語話者群では、『誰が壊したのか』という動作主体の記憶が平均的に弱かった。

その他バイリンガルで検証した実験など、さまざまな興味深い研究があるのだがここでは省略する。

何故、母語の差によって認知機能に差がでるのだろうか? 彼らの脳の構造が言語を使用しているうちに変わってしまうのだろうか? 空間認知・記憶力の強化か? だが、それは違うと私は考える。

ここで、言語の本質を考えなければならないと思う。当然であるが、言語はただの音声伝達媒体ではない。音声・視覚の能記(ラベル)に、所記(意味)という記憶情報を収束付属させた記憶単位という理解が適切ではないだろうか。(手話でもピジン/クレオール化現象は起きる)

その能記ユニット単位で切り取られた概念記憶の能動的な運用が、言語的機能ではないだろうか。記憶情報の運用という観点から考えると、俗に言う発話コミュニケーションはその運用の一部で、思考、認識の全般に広く及ぶと考えるのが妥当だろう。そしてその両者の離断が失語症で、これは交通事故や脳梗塞の後遺症で観察される。

つまり言語はツール(道具)ではなく、認識、思考にも用いる『本能』という解釈が適切だろう。もちろん冒頭で述べた言語を介さない非言語的な思考も存在する。

結局の所、L・ボロツキー達の実験結果を考えると、母語の違いが、認知処理時において脳内情報へのスポットの当て方の違いに微妙に反映されているのではないかと思う。ある種の心的処理において、ワーキングメモリ内の『言語・概念』という意識上に表象される記憶ラベルを、手がかりとし、リカーシブに長期記憶系へのアクセスや対象刺激のフィードバック処理を行っているのかもしれない。その中で注意、記名、思考作業を行っている可能性がある。だから入力される知覚の統合、その表象は同じでも、母語の言語形式が違うと、認知処理時に微妙な違いが生まれるのかもしれない。つまり言語形式というラベルの違いが脳内で構成される知覚・表象情報のどの部分にスポットを当て扱うか、という思考における『志向』の違いを生むのではないか。

では言語のもっとも高次な運用を、思考、伝達、運用のすべての面において考えてみたい。私はやはり『談話』だと思う。相手の感情・関係性などの非言語的情報を観察し、言語形式自体とフィードバックしながら、同時並列的に複雑かつ志向的に言語を内的、外的に運用する必要があるからだ。

また談話人数が増えれば、複雑さはさらに増す。上記のような言語形式の違いによる志向性の違いは、その談話内の指数関数的に増加した処理負荷の中で、最終的に大きな違いへ変化しているはずである。違う言語の話者集団において、特に集団コミュニケーション時の心理状態に違いが生まれるケースがありうるかもしれない。ここで、日本人独自の集団心理の膠着現象、山本七平の『空気』を連想するのは私だけだろうか。

私は古層の形成原因は地理と深くかかわる『歴史』そのものだと考える。歴史とは、マクロな物語というより、ある環境の中での人々の行為の連続と捉えたい。日本という東洋の島国の歴史を容易に語ることは出来ないが、そこでは他地域とは違う環境に晒された中で、また違った行為が数千年かけて営まれてきたことは確かである。『他地域と違う環境』を島国ゆえの異国から侵略の少なさという一つの事情で私は語らないが、別に日本に限らず全ての地域の『人々』は、その各自おのおの場所で、つまり時間と距離という制約の中で、独自の『事象の連鎖』に晒されるだろう。その事象は、自然であり、人の交流であり、その違いが地域の人々の行為の違いへ、そして精神性の違いへ、文化へ、と分化していくことは容易に想像可能である。

問題は、その『行為⇔精神性』の継承媒体ではないだろうか。日本人のメンタリティーは遺伝するや、呪われた村社会の血筋、などと冗談で言う人はいるが、そのような民族の潜在的精神性が遺伝するとは生物学的に考えられない。米国人の両親にシリコンバレーで育てられた、日系の養子は、本土の多くの日本人と同じく、丸山の古層を潜在的精神性として継承しているのだろうか?私は『否』と考える。

各地域における精神性の継承は、周囲の人々の環境により育まれ、そしてまた次世代へ同様な方法で伝達されるのではないか。そしてその環境は、単なる伝統行事や文化的マナーという次元ではなく、数千年にかけてその地域独自の行為の連鎖の中で均衡化した。無意識下にも根づく構造化した行為体系と言ったほうがいいのかもしれない。そして地域集団の中で、幼児からその無意識に行われる周囲からの行為パターン連続に、日々囲まれるのではないか。聞こえ、目に見える形で無自覚に囲まれるとすれば。

その世代を超えた行為構造の連鎖が民族における『行為⇔精神性』の継承システムだと私は考えている。

そして、その行為構造一つが『言語』ではないかと私は考えている。もちろん言語だけではないが、数千年にわたり地域独自の事象の中で音声伝達行為が、均衡・加工形成された客体分析可能な唯一の行為構造の姿そのものだろう。

日本語の言語形成の軌跡を、ここでは問わない。ただ日本語は他の言語と比較すると談話時に、相手との関係性や地位、またはリスペクトなどを明示する特徴的な運用が多い。尊敬語、丁寧語、謙譲語などを例とし、そのような日本語独自の言語形式のフォーマットの違いが集団コミュニケーションの時にどう作用するのか、異母語集団群と比較して、これをL・ボロツキー達の研究を野蛮な形で飛躍させて進めるも面白気がする。何か集団心理が膠着に向かう構造が存在するのだろうか?私はそこに山本七平の『空気』の正体があると考えている。そしてそれは、丸山の古層に通じるのではないか? 行動経済学において語用論の応用がフロンティアになりそうな気がする。

宮崎圭輔 言語聴覚士(個人事業主)