「地球温暖化」は神学論争となってしまったのか。

古川 賢太郎

「地球温暖化」はとても古いアジェンダだそうです。1970年代には既に温暖化に着目している人たちがいました。しかし、温暖化の科学的分析は思ったほどすっきりしないのが現状ではないでしょうか?


アメリカのゴア元副大統領によって温暖化が世界的なテーマとしてプロモーションされたのは5年前のことである。その時は僕も単純に温暖化の”危機”みたいなものを信じていました(参照:北極がなくなる日)。そして、かみ合わない議論にイライラしたものです(参照:温暖化の賛否)。

しかし、なんども繰り返される「異常気象騒ぎ」にふと疑問を抱き、超長期の気温変化などを調べていくうちに、本当に「温暖化問題」というものはあるのか?疑問に思えてきました(参照:異常気象幻想・・・)。気温は人間の所業とは無関係に上がったり下がったりするものなのです。そして二酸化炭素は気温の変化によって、海中から大気中に放出されたり、逆に大気から吸収したりするものなのです。そう考えると、そもそも「温暖化問題」というのは地球の、もしかしたら太陽などを含めた宇宙の、大きな揺らぎの中の出来事で、人間としては「防ぐ」というより「対応する」べき課題なのではないかという気がするのです。

対応するというのは、例えば温暖化によって海中に沈む島嶼部の住民や国民の主権問題を論じるとか。これは「日本沈没」のテーマでもありました。温暖化によって植生が変わることで発生する風土病対策など、やるべきことは他にあるのではないかと思うのです。

しかし、世界は「温暖化はある/ない」「どの程度」などといった雲を掴むような「神学論争」に耽っているようです。温暖化があるかどうかは「不明」だし、どの程度の影響があるのかは「計算マニアの趣味」でしかありません。それより、それが招く事態をどの様に受け入れるかを真剣に検討した方が良いのではないでしょうか。

ちなみに、僕は温暖化が悪いことばかりとは全く思っていません。温暖になることによって、人間を含めた生物の免疫力は高まり生命は強くなります。温暖化によって「緑が復活する」という説もあるそうです。ならば、「温暖化教」の神学論争を避けて他の優先課題に着手するのが日本のとるべき道だと思います。なぜなら、宗教的な「信念」を背景に論争するのは日本人向きじゃないと思うからです。

古川賢太郎
ブログ:賢太郎の物書き修行

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