退屈な低成長の時代

池尾 和人

マンキューのいう経済学の10大原則のうちの第8原則は、「一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している」というものである。すなわち、ある国の持続可能な経済的豊かさは、その国の労働生産性の水準によって決まってくる。一時的には資産を取り崩したり、借り入れを行うことによって、高い消費水準を実現することができる。しかし、そうしたやり方での高い消費水準はいつまでも持続可能なものではなく、持続的に高い消費水準を達成しようとすれば、それに見合う高い労働生産性の水準が不可欠である。


ここでいう労働生産性は、労働者が一定時間内に生産できる実質GDPの大きさのことである。この意味での労働生産性は、資本蓄積の結果として労働者一人あたりの資本量(これを「資本装備率」という)が上昇すれば増加する面があるが、資本装備率を一定としたときには、経済学のジャーゴン(専門用語あるいは隠語)で「全要素生産性(TFP)」と呼んでいるものに規定される。全要素生産性は、いわゆるイノベーションの効果のことである。

要するに、資本蓄積やイノベーションの結果として労働生産性が上昇していかなければ、経済的により豊かになっていく(すなわち、成長していく)ことはできない。ところが、先進国に関しては、イノべーションという成長の源泉が枯渇してきているのではないかと懸念されている。もちろん、これに対してはIT(情報技術)というイノベーションが大いに進展しているではないかという反論が、当然に予想される。

この点を論じたのが、今年米国で話題になったタイラー・コーエンの『大停滞』である。コーエンの論旨を私なりに敷衍して述べれば、次の通りである。

ITの進展は、確かにめざましいものである。しかし、この技術革新は、われわれの生活スタイルを大きく変貌させるものとなっていても、先進国経済における所得と雇用の増大にほとんど結びつくものとなっていない。インターネット上でのサービスの多くが無償で提供されている一方で、広告等で十分に収益を上げられているケースは限られている。それらのサービスの提供に必要な人員もきわめて限定的な数にとどまっている(がゆえに、収入があまり上がらなくても、人件費負担が少ないので何とかやっていけている)。

それ以上に、ITの発展は、先進国でこれまで人間が行っていた仕事を機械(ソフトウェア)によって代替することや、開発途上国にアウトソーシングすることを可能にしている。そのために、先進国の中間層についていうと、むしろその雇用と所得を減少させるように作用しているとみられる。すなわち、ITの急速な発展は、ごく一部の(才能と幸運に恵まれた)者には膨大な所得と富をもたらすものではあっても、経済全体にはイノベーションとしての成果を(雇用と所得という形で)もたらすものとは、少なくともいまのところはなっていない。

こうした意味で、先進国ではイノベーションの枯渇が起こっているとすれば、生活水準の高い率での上昇は実現し得ないということになる。しかし、先進国の多くの人々の要望水準は、過去の経験を外挿する形で高止まりしたままである。すなわち、これまでのように年々3%程度の(一人あたりの)実質経済成長があって当然だという感覚がある。しかし、世界経済の成長の中心が新興国に移行していく中で、先進国ではせいぜい1%程度の(一人あたりの)実質経済成長を実現するのが精一杯だという現実がある。

こうした人々の要望水準と現実との乖離が、様々な不幸を引き起こしているとみられる。

例えば、1980年代以降、様々な資産価格に関するバブルが生じる頻度が上がっているのは、この乖離を埋めようとする願望が強いからだと考えられる。所得が伸びなくても、保有資産の価格が上昇して、それを見合いに借り入れを増やしていけるのであれば、消費水準の高い伸びを実現していける。しかし、現実の経済成長率が低いものであるならば、資産価格の急上昇には根拠がないということになり、やがてバブルは崩壊する。すると、借り入れ(負債)の山だけが残されることになる。こうして米国の金融危機やいまの欧州の財務危機がもたらされることになった。

また、政治は人々の要望水準に応える必要があり、その要望水準が現実離れしたものだと、ついには現実に目をつぶるようになる。すなわち、「過大な期待をされた政府は、自分たちの能力の限界を認めるのではなく、国民の期待を抑制するのでもなく、国民を欺きはじめた。実際にはできないことまで、あたかも実行できるかのように振る舞うようになった」(コーエン、訳書pp.89-90)。このことが、政治(政府)の機能不全をもたらしている。これが、米国の政治状況に関わるだけではなく、わが国の政治状況にもそっくり当てはまることは言うまでもない。

それゆえコーエンは「過大な期待を抱いてはいけない」と主張している。実は、より先立って私も、ブルームバーグのインタビューに応じた「諦めよ、さらば道は拓かれん」という記事の中で、同様の主張を行ったことがある(ブルームバーク・ニュース/日高正裕編著『論争・デフレを超える』中公新書ラクレ、2003年)。

要望水準の方が現実よりも高いときに、現実を要望水準まで引き上げることができれば、それに越したことはない。しかし、それが不可能であるならば、要望水準を現実相応なところまで引き下げる必要がある。ずいぶん後ろ向きの話に聞こえるかもしれないけれども、まず身の丈のほどをしっかりと確認することからはじめようという話である。あまりに背伸びし続けていると、大きな不幸が待ち受けているおそれがある。

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池尾 和人@kazikeo

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