CO2の排出抑制による地球温暖化防止の問題は、様々な要素が絡み合っていて、解決が絶望視されるほど困難な問題だと認識している。しかし、それでも何とかして少しでも前進させる必要がある。
カオス理論をベースとして「無理に防止策を考える必要はない」とする神貞介さんの12月18日付けの記事は、それなりに論旨は通っている。しかし、神さんは、「CO2の排出量と海面上昇などとの因果関係の不確実性」と「メリットに見合うべきCO2排出抑制のコスト」について、その双方を過大に見積もっておられるように私には思える。
先ず、前者の「因果関係に対する懐疑的な見方」だが、これは、今から30年以上も前の1980年4月に、全米科学アカデミー(NAS)がホワイトハウスの要請に応えて提出した書簡形式の報告書の内容を髣髴とさせる。
この報告書は、ゲーム理論などで知られるノーベル経済学賞受賞のトーマス・シェリング教授が、他の何人かの経済学者と共に作成したものだが、その主旨は、「何が起こるかは、それが良い事なのか悪い事なのかも含め、まだ全く分からないのだから、取敢えずは事態を注視するだけでよい」というもので、その時点でも段階的に実施出来たかもしれない「排出抑制プログラム」は推奨せず、「更なる研究の為の予算」の策定のみを提言した。
その後、米国では多くの議論がなされたが、NASの気候研究委員会の委員長だったベルナール・スオミや、オークリッジ国立研究所の所長で、原子力推進論者だったアルビン・ワインバーグ等を始めとする自然科学者の殆どは、「CO2の排出量の急激な増加と将来の深刻な気候変動の因果関係はほぼ間違いない」と論じていたのに対し、ビル・ニーレンバーグ(スクリップす海洋学研究所長)やビル・ノードハウス(エール大学教授)等の経済学者は、前述のトーマス・シェリングの見解をその後もほぼそのままに踏襲していた。
中でもビル・ニーレンバーグは、CO2排出抑制論を封じ込める為に活発に動き、自ら相当の根回しをして、1980年10月に発足した「CO2評価委員会」の委員長に就任、1983年に報告書を提出した。五章からなる自然科学者達の書いた報告と、二章からなる経済学者達の書いた報告から構成されたこの「報告書」は、一見したところは「両論併記」の形だったが、全体をまとめた「統合報告書」は経済学者の主張のみをなぞらえたもので、対立する自然科学者の議論は結果的に殆ど無視されていた。
ホワイトハウスは、この「統合報告書」の趣旨を歓迎、と言うよりも、ニーレンバーグ等と語らってこの様な報告書が書かれるように仕向けた節があり、以後米国は、CO2排出抑制策を講じる事については極めて消極的となる。この背景には、石油業界の働きかけがあった事は明らかだったように、少なくとも私には思えるのだが如何だろうか?
特に、ニーレンベルグの論旨のそこここには、素人の私から見ても疑問に思えるものが多い。例えば、彼が一時期力説したのは、「CO2ガスによる温室効果などよりも、太陽からでるエネルギー量の周期的増減の方が、温暖化に関してはるかに大きな影響を与える」という事だが、これには、資料をちょっと読んだだけでも明らかに分かる「まやかし」がある。
ニーレンバーグの報告書は、歴史的な猛暑の為に中西部の農業が大きな打撃を受けた1988年に「CO2ガスの温室効果」を明快に論証して全米の注目を集めたジェームス・ハンセン教授(ゴダード宇宙科学研究所長)の研究資料を一部引用していた為に、多くの人達はこれを信用したが、実際のハンセンの報告書では、「CO2ガスの影響」「太陽の影響」「火山活用の影響」が並列的に紹介されおり、その数字を比較すれば、実は「CO2ガスの影響」がずば抜けて大きい事がすぐに分かる。これはニーレンバーグが言った事とは全くの正反対だったのだ。
政治的な目的を果たすために、このような「まやかし」までやるというのは、勿論感心した事ではないが、私は、この問題の本質はもっと哲学的なところにあると思っている。
シェリングやニーレンベルグ等の経済学者達の論旨は、要するに、「不確定な将来の為に現時点で大きなコストをかけて防御策を講じるよりは、実際に症状が出た時点で対応策を考えた方が経済的だ」、「人間は過去においても、問題が起これば、それに対抗するようなテクノロジーを開発したり、その都度必要な政策を採ったりして適応してきた」、「海面上昇などは過去においても大規模なものが幾つもあったが、海岸に居住していた住民はその都度移住するなどして、問題に対応してきた」等々という事なのだが、果たして本当にそうだろうか?
テクノロジーの開発も政策の発動も、時機を失すれば効果は激減する。それ以前に、そもそも有効なテクノロジーや政策がその時点で見出せるかどうかについても、不確実性が極めて高い。海岸に居住していた人達は、移住により生命は維持出来たかもしれないが、それまでに営々として築いてきた全ての財産を失い、惨めな境遇に突き落とされたに違いない。
彼等が言っているのは、人類に「事前に防御策をとる」だけの「叡智」がなかった時代の事であり、現在から将来を見据えるに当たっては、そのような「叡智」を持とうと努力すべきは勿論だ。過去に起こった事をそのまま踏襲していては、人類の進歩はないからだ。また、「問題の芽は早いうちに摘み取った方がよい」というのは、古今東西を通じて認識されている原則であり、この原則を敢えて無視すべきという議論も成り立つとは思えない。
しかし、ここまでは、「だから、CO2削減の為の努力は加速されなければならない」という人達(私自身を含む)の主張を裏付けるだけのものであり、「それでは、現在の膠着状況をどうすれば打開できるのか」という問いの答えにはならない。率直に言って、これは極めて難しい問題であり、「地球上に多くの国が存在し、そのそれぞれが、自分達がやる事を全て決定する主権を持っている」という事実を認める限り、解決不可能にさえ見える。
もし仮に、「地球上には日本という一つの国しかない」と仮定したらどうだろうか? その場合でも、議論は沸騰するだろう。温暖化と海面上昇で大きな損害を蒙る場所にいる人達は、勿論防止策を直ちに実行に移す事を主張するだろうが、エネルギーを大量に使う産業に従事している人達は、これに難色を示すだろう。しかし、最終的には、国会と行政府が一つの結論を出して、それが実行される事になる。最大多数の最大幸福を実現する為の計算式を示す事で、反対を封じ込める事が出来るからだ。
しかし、現実の世界はそうはなっていない。各国は自分達の利益を最後まで主張するだろうし、世界中のどのような機関も、それを押さえ込む力を持っていない。
現在の議論を、「産油国(又は、巨大な石油産業を持つ国)」と「非産油国」との利害の衝突と見たり、「既に産業の成熟が一巡し、過去の富の蓄積が高い生活水準を支えている国」と「これから産業を興して、先進諸国との生活格差を縮めたい国」との対立として見たりする人達がいるが、これはあながち間違っているとは思わない。各国とも、最終的には、国内の各企業や国民一般の利害を考える必要があり、理想論だけで物事が決められないのは致し方ない事だ。
そして、「米国と中国という二超大国の意志が、現時点で最大の障碍になっている」という現実は、極めて象徴的だ。カナダが、「最大の排出国である米国と中国が参加していない協定には何の意味もない」として京都議定書から脱退した事は、それなりに筋が通っているし、日本のとった立場についても、私は支持したい。「自国だけでは世界の大勢を変える事は出来ないのに、世界の為に自国だけが取り敢えずは犠牲になる」という選択肢は、どの国も取れるわけはない。
米国では、近い将来、世論が転換していく可能性も大いにあるが、中国、及び、発展途上国全体が、「宇宙船地球号を全ての人類が支える」という理想の実現の為に、その立場を大転換してくれる可能性は、そんなに大きくはないと思う。
「一つの究極的な解決策」と一時は期待されていた原子力も、福島原発の事故で、その「脆弱性」と「事故が起こった時の影響の大きさ」が、世界中の人々の目に明らかになった現在は、もはや期待の対象にはなれない。
そうなると、唯一の希望は、やはり、「これからの技術革新によって自然エネルギーのコストが大幅に下がり、石化燃料がコストで太刀打ちできなくなる」事にしかないように思える。
中でも太陽光発電は、現状ではコスト面で大きく劣っているが、半導体技術である「光と電気の変換部分」は、風力や地熱の場合とは異なり、やり方一つで「一桁低いコスト」を達成する事も十分可能である。米国、中国を始めとして、インド、ブラジル等も、太陽光発電に向いた適地には事欠かない故、一旦技術革新が起これば、石化燃料からの転換に躊躇する事はないだろう。
心ある人達が、「CO2排出抑制の絶対的な必要性」と「その事実上の難しさ」を常に心に強く刻んでいれば、この様な技術革新のエネルギーも倍加するだろう。この事については、数ヶ月以内に、もう一度アゴラ上で具体的な議論を展開したい。
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