子供の権利の視点がまったく抜けている教育基本条例批判

大西 宏

大阪維新の会が掲げる教育基本条例案に反対する識者と言われる人たちの説得力が欠けていると感じます。修正の可能性を示したことで府の教育委員会も総辞職を撤回したようですが、お引取り願ったほうがよかったかもしれません。教える側の立場を擁護し、教育の場を行政が立ち入ってはいけない聖域とするのは教育サービスを提供する側の理屈にすぎません。そこには教育を受ける側の権利の視点がすっぽり抜けおちています。教育は教育者のためにあるのではなく、教育を受ける側のためにあることを強調したいのです。


教育の場が、いつの間に聖域となってしまったのでしょうか。おそらく長年の制度や慣行の垢がたまり、文部科学省、教育委員会、また日教組のもたれあいの構造が生んだものだと思います。もちろんもっともその責任を問われないといけないのは、文部科学省の官僚や、その状況に手をつけなかった政治だと思いますが、誰も責任を取らないのです。

しかし現実は、塾にいかなけば成績があがらない、いかに能力があっても、高い授業料の私学にいかなければ思ったような大学にはいけないなど、教育環境の格差を生み出してきた日本の教育制度がいいわけがありません。

教育に社会がもっと関心を持ち、よりよい教育環境を再び構築することが必要だと感じます。日本が明治以降の近代化を奇跡のような速度で達成できたのも、若い才能を持った人々に活躍できるチャンスが生まれ、日本を牽引したこともありますが、江戸時代にすでに識字率が8割を超える稀有な教育レベルを実現していた国民の能力にもあったことも否めません。なんと江戸時代に藩校、寺子屋をあわせ17,000を超え、日本は世界に類をみない教育先進国だったのです。

工業化の時代から、情報化の時代に移り、ますます知恵の競争の時代にはいってきており、知恵を生みだす人材を育てることは日本にとってもっとも重要なことだと思います。しかし残念ながら、長い自民党政権下で目先の景気対策を優先しすぎ、教育が犠牲となり、先進国のなかでは子供への投資が極めて低い国になってしまいました。日本の活力がなくなったひとつの原因ではないかとも感じています。

先生たちのすべてに能力がないわけではありません。子供たちが小学校から高校まで大阪府下の学校に通った経験で感じたのは、先生によって差が激しいことです。教育に熱心な先生、教え方の上手な先生、子供たちから卒業後も慕われる先生に巡り会えた子供は幸運なのですが、そうでない先生にあたってしまうと、生徒たちの意識も萎えてしまいます。

いい先生を育てるしくみが弱いのだと感じます。もちろん教え方を研究している先生たちもいらっしゃいます。しかし多くの場合は、余計な仕事に忙殺され、肝心のいかに教えればいいかを研究し、また研修するしくみが弱いのでしょう。それぞれの先生の潜在的に持っている資質で決まってしまっているのが実情でしょう。

教育に評価はなじまないとする人がいますが、もうひとつ説得力を感じません。教育は高度なサービスです。行政サービスであるかぎり、その質を高めるのは行政の責任です。

子供たちに教えることは決して簡単なことではありません。それぞれの個性も異なり、能力差もあります。時代の変化もあります。とくに現代は、酷い親にも対処しなければなりません。どうやって教えれば、生徒の能力をあげることができるかの知恵や技術が生まれ、また磨くしくみをつくっていかなければ誰もが、教育を受ける権利は形骸化してしまいます。

かつて、子供たちにコーチとしてスポーツを教えていたのですが、大変でした。情熱だけではなく、子供たちを飽きさせないで効果的にレベルをあげていくには、教え方の創意工夫も必要だし、教え方の学習も必要だということを痛感しました。スポーツの場合は、ゲームの勝敗でその成果がでてきます。
指導のレベルがあがると、チーム成績は確実にあがります。ほとんどコーチのレベルでチームのレベルも決まってくるのがスポーツです。それをコーチたちが競いあい、それが善循環となってきます。

先生を評価することは、それ自体が目的ではなく、あくまで手段だと思いますが、何らかの評価制度がなければ全体のレベルを上げていくことはできません。目標を持たなければ、どの程度レべルがあがったのかの基準も持てません。

海外では生徒に先生を評価させる制度もありますが、評価制度の設計は専門家を交えて詳細を詰めればいいと思います。しかし、まずは教育を聖域とする考え方を一掃しなければ、教育のレベルアップをはかる改革は不可能だと感じます。抽象的なことを言っているだけでは、教えるレベルがあがりません。北村隆司さんのブログで大阪市職員への橋下新市長を自由を圧迫していると批判している識者が問題をわかっていないと批判されていますが、同じことを教育基本条例案に対する批判に感じます。
「曲学阿世」か、「世間知らず」か?─「識者」の大阪市改革論を嘆く(北村隆司) – BLOGOS(ブロゴス) :

再度強調しておきたいのは、教育は誰もが受ける権利のあるサービスであり、サービスを受ける側の権利にもっと関心をもつべきです。教育を受ける側からの視点にたって考えてもらいたいものです。

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