失われたものの意味

純丘 曜彰 教授博士

今年を表すなら、むしろ「失」の一字だろう。喪失、そして、失敗、失望、失墜。去年は有ったものが、いまはもう無い。

ものごとの意味は、それを失って初めてわかる。それが有るうちは当たり前のようにしか思えないのだ。そして、ものごとの意味とは、それが有ることと無いことのの差にほかならない。だから、今にして思えば、以前から、もしそれが無かったら、と想像することで、それが有ることの意味も、もっとよく知ることができたはずだ、と後悔する。


想像はまた、あの人がいたら、あれがまだ有ったなら、と、かなわぬ願いばかりを心に巡らせる。帰っては来ぬ人、壊れて失われたもの。年の瀬に忘年会などと言っても、それを忘れられようか。いや、忘れてはならないのだ。あなたが忘れれば、その人がいたことの証拠、それが有ったことの記憶すら、消えてしまう。

世間は、この一大事にも、きずな、だ、がんばれ、だ、と、浮かれ騒いだ。そこになんの薄ら寒さも感じずにいられた者は、幸いだ。以前と同じに過ごすことこそ弔いなのだ、などと言って、一時しのぎのお祭りをしてみたところで、気づいてみれば、やはり目の前にはもう無い。どんな言葉も、どんな施しも、けしてその埋め合わせになりはしない。そのこともわからぬ連中は、やがて興も冷め、別の熱狂へと移っていった。だが、大切な、かけがえのないものを失った者は、がらんとした部屋で夜の時計の秒針が響くたびに、失ったもの、失ったときの大きさを思い出さずにはいられまい。

ともに泣く以上のことが、この世の誰にできようか。仏話が伝えるに、死んでしまった幼子を抱えた女が仏陀のもとに駆け込んで来て半狂乱で叫んだ、あなたに本当に法力があるのなら、この子を生き返らせてよ! 仏陀は静かに女の手を握って言った、わかった、やってみよう、しかし、それにはケシの実がいる、一人の死者も出したことの無い家のケシの実だ、と。女は、すぐさま走って出て行くと、村中の家々を必死に訪ね歩いた。だが、そんな家はどこにも無かった。 

人は、生まれたときからパラシュートも無しに飛行機から飛び降りたようなもの。だれもが、いずれ地面に激突して死ぬ。いや、自分は生きている、自分で飛んでいる、などと言ってみたところで、せいぜい浮雲に乗って、空に命を長らえているにすぎない。だから、ほんの一時、風を失っただけで、一瞬にして世を去ることになる。

運不運、早い遅いを言い出せば、キリが無い。だが、たとえ失われたものでも、それが最初から無かったならどうか。どうせ不幸な目に遭うのなら、そんな人は最初から生まれて来なかった方がよかった、とでも言うのか。どのみち、ものは失われ、ひとは死ぬ。送る側も、送られる側も、ほんの後先のことにすぎぬ。この広い天地に機縁を得て出会い、ともに過ごすことができただけでも、どれほどありがたいことか。たとえ去っていったとしても、どれほどの思いを与えてくれたことか。

だが、それは、いま出会うひと、いまここにあるものについても同じこと。いずれはかならず失われる。そして、また同じ後悔を繰り返すのか。あの去っていったひと、壊れていったものが命がけで教えてくれたことが、まだわからないのか。かなわぬ願いに執着し、それで、いまをないがしろにするのなら、また同じ過ちを犯すことになる。いずれ、なにもかもが失われる。だから、もうこれ以上、後悔も新たに残してはなるまい。

by Univ-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰博士(大阪芸術大学哲学教授)

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