物語という言葉は日常的に使われている。だが、「物語とは何ですか?」という質問に正確に答えるのは難しいのではないだろうか。物語とは、それ自体を手に取って「これです」と提示することができない種類のものであり、あまりにも情緒的なイメージを含む言葉だからだ。ただ、だからこそ紐解いてみたい。何が物語を物語足らしめているのか。そしてなぜ、物語はこんなにも多くの人々を魅了するのかを。
そこでまず、改めて辞書を引いてみた。大きく以下の4つの意味が振り分けられている。
1.あるまとまった内容のことを話すこと。ものがたること。また,その内容。話。談話。
2.文学形態の一。広義には,散文による創作文学のうち,自照文学を除くものの総称。
3.浄瑠璃・歌舞伎の演出・演技の一形式。登場人物が過去の事件や心境を身振りを交えて物語る場面。
4.男女が相語らうこと。情を交わすこと。
※大辞林 第三版(三省堂)より引用
要約すると、口語であれ文章であれ何かについて語ること、ある人物によって表現されるシーン、恋愛ということになる。物語そのものがそこにあるわけではない。つまり、原則として目の前で起こっている現象ではなく、「物語性」を有した塊としてまとめたものということになる。4.においては人間関係そのものを指すが、当事者がそこで瞬間的に感じていることというよりは、一定期間続く関係性を振り返る文脈で用いられるように思える。
そうすると、物語とは進行形で把握される日常的/現実的なものではなく、それが過ぎ去ったのちに回顧される非日常的/非現実的なものという性質を帯びることになる。物語る、というのはイコールそこに物語があったことを「確かめる」作業なのだ。過去に起こった現象を「客観的な事実」として記録するのではなく、「主観的な出来事」として振り返ることとも言えるだろう。
こう考えると、ある人の身に起こったこと、その人が感じたことを主観的に語る(書く)ことが前提としてあり、客観的な事実は物語にはならない。人が、客観的な事実、現象を知覚するだけでは飽き足らず、主観的な「物語」を必要とすることをこの言葉は内含している。概念的には二次的な余剰物でありながら、同時に不可避的なものでもあるということだ。
では、なぜこの余剰物が産まれるのだろうか。それを解く鍵は「記憶」にあると思われる。人間の脳はデータベースとしてはそれほど優秀なものではなく、覚えておきたいことでも簡単に忘れてしまう。記憶は、曖昧で不安定なものだ。だが、記憶は時に事実よりも鮮明で、確からしく感じるものでもある。だからこそ、人は残したい、振り返らなくてはならないと「物語る」のではないだろうか。つまり、人であれ、出来事であれ、「忘れたくないもの」の中に物語がある。それが現実のものであるか否か、客観的であるかどうかなどとは関係なく。
村上春樹の短編『午後の最後の芝生』の中に、「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている」という一節があるが、この「小説」は「物語」とも置き換えることができるだろう。なぜなら、記憶の集大成が物語であり、記憶を物語として紡いだものが小説だからである。一人ひとりにそれぞれの物語があり、生きる中で感じること、他者との関係性の中で自然と物語は形成されている。ふとしたときに蘇る昔の恋人と歩いた冬の公園の空気、付けていた香水の甘い香り、つないだ手のひんやりとした感触、そういうものはことごとく物語を形作る要素なのだ。
こういった物語の欠片にテーマを与え、具現化したものが小説であり、映画であり、ドラマである。その中には、記憶を呼び起こし、郷愁を誘い、胸を締め付け、心をゆさぶるものが詰まっている。たとえそれが非現実的な設定であれ、登場人物やそこにある世界に自らを重ね合わせ、共感し、物語に身を委ねることができるのだ。自分自身とは直接関係がなくとも、物語性を共有するというその行為において普遍的なものとなる。だからこそ、多くの人が欲するのであり、ストーリーテラーの存在に価値があるのだ。
私はこの、生命維持には必要ないが、それがないと生きていけないものである物語を、そしてその不可避性を愛している。
青木勇気 フリーランス
「Write Between The Lines.」
────────────────────────────────────