迷うなら大学には行っておけ

近年、大学論がかまびすしいが、実際に大学の中にいる側からすると、いったいどこの大学の話をしているのか、不思議でしかたない。現在、日本の大学は約八百。まさに、やおよろず、で、研究主導から教育重視まで、金満強欲から質素倹約まで、裏口縁故から試験厳選まで、軟弱文系から偏屈理系まで、芸術感性系から体育筋肉系まで、驚くほど多種多様なものがひしめいている。潰れそうなところもあるが、それでもなお踏みとどまっているのは、それなりに手を講じて、他には無い特色を出しているから。


この状況で、むしろ素朴な大学論を語りたがる人たちの方が興味深い。大学関係者ならともかく、さて、彼らになんの関わりがあるのやら。大学が役に立たない、とか、アホ学校に補助金はムダだ、とか、言いたい放題。アホがアホだと自覚して勉強しようっていうんだったら、ムダだ、は、ないんじゃないの?

大学なんて、寺社教会と同じようなもの。もともと実際、歴史的にも寺社教会から大学が派生したんだし、御利益が無い、なんて思っている不心得者に、御利益なんかあるわけがない。賢人たちの知恵を尊び学んでこそ、そこから得られるものもあろうが、最初からくだらないと思って、学びもしないなら、行かないも同じ。初詣出でも、七五三でも、節目、節目にきちんと参拝して、みずから気を引き締めてこそ、御利益ともなる。

つまり、大学が役に立つか立たないかは、本人次第。二十歳にもなって、勉強しなさい、でもあるまい。きちんと役立てている人もいるわけだし、自分が役に立てられなかったからといってムダと言い切るのは、自分のバカを晒すようなもの。それなら、有限の貴重な公共電波にのべつ繋げっぱなしの携帯ゲームだの、食糧危機・エネルギー危機の時代に喰い切れないほど喰い散らかす居酒屋だのの方が、ずっと世の中の時間と資源のムダな気がするが、人の生き方はそれぞれ。人が好きでやってることに口を出すもんじゃない。

いまの日本で、高卒でも仕事が引く手あまた、というのならともかく、家でプーのヒッキーになるくらいなら、どうせヒマなんだし、大学でも行こうか、というのは、合理的な選択だと思う。社会経験を得てから大学で勉強する、というのも悪くはないが、車の免許と同じで、若いうちの方が周囲に面倒が少ないのも事実。そりゃ授業料も安くはないが、暇つぶしに毎日、パチンコなんかしているのに較べれば、はるかに安い。たとえ教員がダメダメだったとしても、同年代の友だちと出会う場としては、夜の繁華街よりはまし。

大学を貶すやつらは、ひょっとして、自分より年下の若い連中相手に偉そうに先輩づらしたいだけなんじゃないだろうか。そんな若年寄みたいなみっともないマネは、やめておけよ。いかにも、ふだん、まともに若い連中にかまってもらえていないみたいじゃないか。連中には、連中の未来があるんだし、彼らが自分で大学に行こうと思うんだったら、ヘタにケチをつけても、よけい嫌われるだけだぞ。

もちろん、大学に行かない、というのも、ひとつの生き方。けれど、行くも、行かないも、ヒネたおっさんたち、おばさんたちの言になんか左右されてどうする? 勉強するか、しないかなんて、自分で決めることだ。そして、どの道へ進むにせよ、自分で道を決めた以上、自分でそこから役立つものを学び取るべきものだ。

大学なんて寺社教会と同じ。迷ったら、そして幸いにも行かれるのなら、まあ、試しに行っておけ。嫌ならいつでも辞められる。知らずに拗ねて貶すのは、惨めなだけだぞ。

by Univ-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰博士(大阪芸術大学哲学教授)  

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