暴力団員にも人権はある --- 早川氏の主張は正しい

北村 隆司

「暴力団と人権」を論じた早川氏の記事が「ブロゴス」に出たが、読者の反響は否定的な物が圧倒的であった。

同氏の主張を「暴力団」に同情的だと解釈した批判が多かったが、それはとんでもない誤解で、同氏は「暴対法」が粗悪品だと言っているに過ぎない。私は、早川氏より遥かに強硬な暴対法「ぺけ品」論者である。

暴対法の恐ろしさは、「罪刑法定主義」を否定し「Guilty by Association」(犯罪の証拠もなしに特定の人物や団体と交際があると言う理由だけで有罪とする原則)を肯定するなど、民主主義への重大な挑戦であり、「治安維持法」と瓜二つだと言う事にある。


恐ろしいのは、日本国民が持つ、「悪法も法なり」と言う「官尊民卑」の後進性と、権力の行き過ぎから国民を守る崇高な役割りを持つはずのマスコミまでが、唯々諾々と官憲にすりよる姿である。
ある報道によると、「警視庁の条例担当者が各報道機関を訪れて協議をした上、タレントや制作会社との契約に暴力団の排除条項を加えたり、NHKが、制作会社と契約を結ぶ際に、暴力団との関係が発覚した場合には一方的に契約を解除できる条項を盛り込む方針を固めた」と言う。

これでは、中国、北朝鮮の御用報道機関と全く同じである。実に情けない実態だ。

暴対法の恐ろしさは、法を犯さなくとも、知らずに暴力団員の親、子供、親戚、幼なじみなどとお茶を飲んだり、歓談したりするだけで、暴力団員と同じ枠組みで処罰される可能性がある事だ。然も、一度「近接者と認定されると、金融機関から融資の一括返金を求められたり、手形の振り出しも不可能になるなど、暴力団より一般市民のほうが緊張を強いられる可能性すらある事だ。

幾ら無関係を主張しても「ない物を証明する事は不可能に近い。これでは、「おいこら!警察」を超えて、正に、北朝鮮式社会の到来である。

報道機関の努めは法律に盲従する事ではない。問題の法律を巡って論議を起す報道機関の任務を棚に挙げ、手っ取り早く島田神助さんを引退に追い込んだやり方は、法律で禁止された「村八分を使った卑劣なやり方である。

政治経済にド素人の島田紳助さんを利用して視聴率を上げたマスコミや、調子に乗って知りもしない事をいい加減を言って人気取りに走ったり、平気で恫喝や暴力を繰り返す島田神助さんには批判的な私だが、マスコミの「村八分」と言う違法行為は許せない。この様なマスコミに、報道、表現の自由や情報源の秘匿などの特権を付与する価値はない。

日本も「ぺけ法」である「暴対法」は廃棄して、組織犯罪を取り締まる目的で1970年に米国で成立した「威力脅迫および腐敗組織に関する連邦法(RICO法)」の導入に踏み切るべきである。

この法律の特質は、組織犯罪そのものを禁じて重い刑を適用するほか、犯罪組織が不法に得た財産などの没収、犯罪組織が支配する企業や団体などの解散を求めることもできるだけでなく、裁判所の許可を得て、おとり捜査、盗聴、司法取引なども認めた法律で、マフィア、腐敗警察組織、汚職、インサイダー取引など口の固い組織犯罪の摘発で世界の先進各国でも導入され、威力を発揮している。

一見、権力的に見えるこの法律だが、全てのステップに外部監査が入り、寧ろ日本の検察の近代化にも役立つ法律である。

日本には組織犯罪対策三法が1999年に成立したが、犯罪組織の財産そのものの没収が困難で、国民背番号もないなど資金洗浄を防止するインフラ整備もない。

この様に、縦割り組織の日本には組織犯罪を根元から摘発できるシステムを作る能力がないからと言って、日本国憲法第31条で定めたデュー・プロセス・オブ・ローの原則や罪刑法定主義などの基本を無視して、「暴対法」と言う北朝鮮的な法律を許す口実にはならないと考える。

北村隆司