池尾小幡論争

小幡 績

というよりは、池尾氏が小幡を教育的指導している感じだが、若造は(若くもないが)、あえて、喧嘩を挑むことにする。

池尾氏にコメントをいただいたが、これに大筋では賛成だが、結論には強く反対する。

現代ファイナンスは、悪で罪深く、行動ファイナンスはナイーブだが純粋無垢なエンジェルだ。


池尾氏のコメントを再掲しよう。

……
個人行動のレベルで、ベヘィビオラル(行動的)な要素が占める比重が大きいと言ったって、それ自体は正しいことだとしても、経済学にとって真に関心があるのは、市場価格の形成といった機構(メカニズム)レベルの話だから、個人行動について語っているだけでは社会科学的にはほとんど無意味なことに過ぎない……
……
それゆえ、メカニズムを語らないと始まらない。しかし、メカニズムを語っている行動経済学や行動ファイナンスの文献で、これは感心したというものには、残念ながらお目にかからない。

これは誤りだ。

いや半分正しい。

いやほとんど正しい。しかし、最後の判断が誤っている。

行動ファイナンスは幼稚だ。現時点では使い物にならない。それどころか、理論の体すらなしていない。それは、ミクロレベルの経済主体、個人の行動原理も確立できず、したがって、この個人の集積の場であるマクロ金融市場に関しては、何も語れない。それどころか、語ることすら忘れ、脳みその中のこととか、いや、脳の機能について新たな発見があるのではなく、経済的行動と脳のよく知られた働きを結びつけることに熱狂している。これらを池尾氏は批判している。それは全く正しい。

一方、現代ファイナンスは、期待効用最大化説という現時点の経済学の基礎に基づき、それを代表的個人、CAPMという枠組みを通じて、マクロ金融市場の話に拡大し、現在と将来をつなぐ資産市場である金融市場に不可欠な将来への期待を、合理的期待仮説などをはじめとする、何らかの将来期待に関するモデル(仮定)を設定し、ダイナミクスも閉じた理論モデルの中で処理し、個々の主体の行動モデルを基礎にしながら、完結した金融市場モデルを確立している。その意味では大変すばらしい。

しかし、これこそ、現代経済学の典型的な罪だ。

それは、理論的に整合的で、美しく、また、非常に知的な人々が知的に権威を持って主張し、権威の枠組み、権威的な学会、著名大学、ノーベル賞などの後押しを受け、一般の人々は、それが社会の真理だと信じる。しかし、それは知的で美しいが、現実とは無関係である。なぜなら、基礎となる経済主体のミクロモデルは仮定(現実とは無関係だから妄想といっても良い)に基づいており、それを集約したマクロモデルは、理論的な整合性を最優先し、現実からは乖離している。何より問題なのは、ミクロモデルもマクロモデルも、現実から乖離していることを承知の上で、何事もなかったように平然としていることだ。

これは確信犯であり、確信的に社会を殺している。

あまりに罪深い。

一方、行動ファイナンスは、現実の人間の行動をミクロレベルで確認しようとしている。その考察たるや、メソポタミア文明の医学よりも幼稚なレベルであるが、しかし、それでも、現実を真実として崇め、それに近づき、解明しようとしている。能力がゼロであったとしても、これらの学者を私は支持する。嘘をつかず、現実と向き合い、真実を理論的に確立できるという望みが全くないのに、それを目指している。自分の人生が、経済学の理論を確立することが目的であれば、それは100%徒労に終わることが明白でありながら、チャレンジしている。すばらしい阿呆ではないか。

私は罪人よりも、無害な阿呆になりたい。